日本美術とその将来  五、書について(自観叢書第五篇 『自観随談』昭和24年8月30日) 

 私は絵と共に書も好きである。御存知の通り毎日数百枚の書をかく。恐らく私の書く書の量は古往今来日本一といっても可かろう。お守にする光の書は一時間に五百枚をかく。又額や掛軸にする二字乃至四文字の書は三十分間に百枚は書く、余りに早い為三人の男で手捌てさばきをするが、仲々追つき得ない。トント流れ作業である。

 書道に就て私は以前或有名な書家に習いたいと申し入れた。それは略字に困る事があるからで、それを知りたい為と言った処、その書家が言うには、

「先生などは書を習う事はやめになった方がよい。何故ならば習った書は一つの型に嵌って了うから個性がない。字が死んで了う。形だけは美しいが内容がない、自分などはその型を今一生懸命破ろうとして苦心している位だから、先生などは自由に個性を発揮される方がよい。字を略す場合など、棒が一本足りなかろうが多かろうが一向差支えない。」と言うので、私は成程と思い習う事はやめて了ったのである。

 絵画や美術工芸なども、古人の方が優れている事は定説となっているが、書に至っても同様で、私は古筆などを観る毎に感歎するのである。特に私が好きなのは仮名がきで、現代人には到底真似も出来ない巧さである。尤も其時代の人は生活苦や社会的煩わしい事などないから、悠々閑日月の間に絶えず歌など物したり書いたりして楽しんでいた為もあろう。現代人で古人と遜色のない仮名がきの名手としては、尾上柴舟さいしゅう氏位であろう。古人で私の好きなのは先ず道風、貫之、定家、西行、光悦等であるが、特に光悦の一種独特の文字は垂涎措く能わざるものがある。又俳人芭蕉の文字もなかなか捨て難い点があり、而も芭蕉の絵に至っては専門家と比べても遜色はあるまい。之によってみても一芸に秀ずる人は他のものも同一レベルに達している事が判るのである。

 漢字では王義之、空海等はいう迄もないが、近代としては山陽、海屋、隆盛、鉄舟等も相当のものである。何といっても漢字は文字の技巧よりも人物の如何にあるので、やはり大人物の書は形は下手でも、どこか犯し難い品位がある。之に就て霊的解釈をしてみよう。書にはその人の人格が霊的に印写されるのであるから、朝夕その書を観る事によってその人格の感化を受けるので、そこに書というものの貴さがあるのであるから、書はどうしても大人物、大人格者のものでなくては価値がないのである。姙娠中の婦人が胎教の為、偉人の書を見るのを可としているが、右の理由に由るのである。

 茲で、私の事を書いてみるが、私の救の業としての重点は書であるといってもいい。それは書が大いなる働きをするからで、此説明はあまり神秘な為何れ他の著書で説くつもりであるが、茲では只書道を随談的にかいたのである。

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