私が、教団が設立した警備会社に出向した際の最初の御用は、三代教主様の身辺警護でした。その後、MOA会長だった川合氏の警護も担当することになり、更には、教主継嗣だった岡田陽一様が教主になられてからは、お三方の警護を担当することになりました。お三方が、いっぺんに公用で動くということは少なかったので、御面会日などは最大でも二名の要人に対して、二名の警護員をそれぞれに配置して、四名体制で警護に当たっていました。お一人の場合は、私が職長で警護に当たりましたが、会長警護がメインでした。
この警備会社は、平成3年の設立で、紛争勃発から初期段階と言える時期の設立でした。いわゆる、「再建」「新生」「護持」という名称で、三派に別れていた頃で、それぞれがまだ法人格を取得する以前でした。
新生にしても護持にしても、「あなた方の警備会社は、再建がつくった警備会社だ。我々は認めない。」という言い方でした。それに対して私は、「先輩方は、信仰者なのに現象面しか見えていないのですね。確かにその通りですが、この紛争を通じて、明主様が聖地を守るために設立された、明主様の警備会社だと、私は思っています。」と、いつも言っていました。
それから数年後、新生が管理していた救世会館周辺の巡回警備を行うことになりました。勿論、正式な契約を結んでのことです。その間の私は、他派のいろいろな先輩方や後輩と積極的に会うことをこころがけていました。その中で取れた契約の一つでした。当然ながら、新生派内部の事情もあるでしょうし、トップレベルでの交渉ということもあるかも知れません。そして京都平安郷の警備についても、当時の平安郷のトップが、我社に警備を依頼してもいいというところまで漕ぎつけましたが、最終的には新生派の総務部長の「まだ、時期尚早だと思います。」という一声で、残念でしたが見送りになりました。
丁度その頃の話ですが、私に、MOA会長の運転手兼ボディーガードの話が舞い込んできました。それまでの会長警護では、会長車の後ろを我々警護員が追尾して警護するという形態でした。詳しい理由は知りませんが、それまでの会長車の運転手が外れることになり、役員車の運転手に声を掛けた結果、誰一人として承諾する人がなく、日ごろ警護に就いている私にお鉢が回ってきたようでした。当時の会長車は、センチュリーでした。会長が関西に行く初日に、熱海の東山荘までお送りした際に、「今日はクラウンでいいが、関西に行っている間に練習しておいて、迎えの時はセンチュリーで来るように。」と言われて鍵を預かりました。
成城から熱海へ、熱海から箱根へ、箱根から成城へというのがその頃の御面会日(参拝日)の行程でしたが、数年後には、成城と箱根の往復ということになっていきました。その他にも都内や関東圏での御用の際や、羽田空港や成田空港までの送迎もさせていただきました。
その頃のエピソードとして、軽井沢の別荘に行った時でした、「何か聞きたいことがあれば、何でも聞いていいですよ。」と言われて、私は、「メシヤ降誕仮祝典の時のことですが、観山亭に戻られてから程なく、『私をメシヤと呼べない者は、ここから出ていきなさい。』と言われたようですが、私は唐突に感じています。何があったのでしょうか。」と質問しました。会長は微笑んで、「それは、二代様に関してのことですよ。」と言っていろいろ話してくださいました。私には、優しく接してくださり、ご注意はありませんでした。
それから数年が経過したある日に、教団中枢に君臨していた役員から、私のところへ電話がありました。彼は、開口一番「あんたは、クビだ。」と言いました。私は、「何のことですか。」と尋ねました。続いて彼は、「今日で、会長の運転手は終わりだ。従って、センチュリーの鍵は、役員室に届けておくように。」ということでした。私は、何をエラそうな言い方をしているのかと思いましたが、「承知しました。」と言って電話を切りました。
そういえば、先回成城まで送った際に、奥様が「ちょっと待っててね。」と言って、ワインを一本くださいましたが、そんなことは初めてのことでした。あの時のワインは今までのお礼の気持ちだったのかと思いましたが、「時すでに遅し」です。なんで前もって通知しておいてくれなかったのか。最後の運転だったら、会長への挨拶のしようもあったのにと思いましたが、何の会話もなく、運転手兼ボディーガードの役目は終了しました。その電話があったのは、平成17年(2005)5月20日(金曜日)のことでした。
私は、会社のデスクでしばらく呆然としていました。その時に、どれくらいの期間、会長の運転手兼ボディーガードの御用をさせていただいたのだろうと思って、手帳を見返しました。最初、クラウンで成城から熱海の東山荘に送ったのが、平成8年9月12日(木曜日)のことでした。従って平成16年の9月12日で満8年、平成16年9月12日から平成17年5月12日までで満8ヶ月、そして平成17年5月12日から20日までが8日ということで、トータルで8年8ヶ月と8日ということに気づきました。そもそもどれ位の期間やったのかということを、調べてみる感覚も普通ではないかも知れませんが、その結果、スリーエイトの数字が並ぶことの不思議さに驚きました。
その後この数字の意味は何だろうと思っていろいろと考えましたが、八八八の末広がりの縁起の良い数字の三つ並びということと、パチンコならとりあえずのフィーバーだという以外に思い当たりませんでした。これにも、きっと意味があるに違いないと思いながらも、夢知らせもなければ、そうだと思えるような発想もなく、年月だけが過ぎていきました。
その後の私は、紆余曲折を経て、箱根事務所勤務になりました。箱根では、さまざまな奉仕研修の他に、「みがき隊」の受け入れというのがありました。それは、「観山亭を磨きたい」という奉仕者の受け入れの意味ですが、毎回14~15名くらいいたと思います。それに、職員も数名加わって、観山亭の隅々まで丁寧に磨くご奉仕をさせていただいていました。
ある日の「みがき隊」の時でした。私も、ご奉仕の方々と一緒に参加させていただいて、リーダーから「○○さん、玄関をお願いします。」と言われて、上がり框(かまち)を力を入れずに磨いていました。
ご存知の方もいると思いますが、観山亭の玄関を入ると明主様専用の履物を脱ぐ石があり、御面会日などの拝観できる時には、明主様がご使用されていた下駄や杖が置いてあって当時を偲ばせてくれました。何かの研修の時に「この石は○○県産で、とても硬い石です。」という話を聞いた記憶があります。
上がり框を磨きながら、「硬い石」とは、「固い意志」ということではないかと思ったり、明主様はここから下駄を履いて外に出られたのだなあと思ったりしていました。丁度その時です。八八八の謎がフッと解けた気がしました。
私が警備会社に出向していた時は、箱根(火=五)と熱海(水=六)の聖地の警備の実施が許され、京都(土=七)の聖地警備も契約寸前まで進んでいました。つまり、八八八の合計は24で「にし=西」という意味で、西へ向かえということで、京都平安郷の警備をやり遂げなさいという御心だったのかと思いました。
また、八八八は七八九の合計と一緒で、京都平安郷(七)の警備を実施し、警備会社として発展(八)することで、明主様の警備会社として究極的に完成(九)するということを、会長警護の期間のスリーエイトという予想もしなかった数字によって、教えてくださっていたのだと思いました。
このことに気づいた時は、本当に涙がにじむほどの感動でした。そして運転手兼ボディーガードの期間が、8年8ヶ月と8日の期間だったという時点で気づかなかった自分の愚鈍さが、本当に情けなく思えて、申し訳のない気持ちになりました。これも、リーダーから「玄関をお願いします。」と言われなければ、そして玄関で、「明主様は、ここから外へ出て行かれたのだが、どこへ行かれたのだろう。神仙郷内は勿論だが、ここから全世界の救いのための一歩を踏み出していたに違いない。」などと、あれこれ考えることがなければ、気づくことがなかったかもしれません。
しかし、私はすでに警備会社に身を置いていませんでしたので、心からお詫びいたしました。今では、そのことを教えて下り、その会社に所属していないことにも、きっと深い意味があるのではないかと思いますが、それは将来への持ち越しの課題だと思っています。
そういえば、センチュリーを入れ替える時に、総務から「好きなナンバーはありますか?」と聞かれましたが、私は「特にありません。」と答えました。しかし、わざわざ聞いてくるには、何か意味があるに違いないと思って、明日まで待ってもらうように頼みました。その頃、新生や護持では、理事長や役員のナンバーは、「5-67」や「3-69」が多かったので、会長も同じナンバーでは嫌がるだろうと思って、あれこれ考えて、「36-18」が良いと思って、総務にお願いしました。「369」で「ミロク」ですが、最後の9を1と8に分解して、少しひねった「ミロク」というつもりでした。
ある時、箱根の祖霊舎の前に停車していた際に、ある信者さんが「この車は誰が乗られているのですか?素晴らしいナンバーですね。」と言われました。私は、分かる人は分かってくれるんだなと思い、嬉しくなりました。また信友と呼べる人が、「弥勒菩薩ではなく、弥勒観音だな。」と言いました。確かに、「36」だけで「ミロク」と読めますし、「18」は観音様の数字ですから、弥勒観音とはうまい表現だと思った次第です。また「18」は、漢数字では、「十八」で十字に結んで末広がりとなり発展を意味しますので、このナンバーにして良かったと思いました。
その時の経験があったので、八八八を七八九と置き換える発想が、観山亭の玄関のご奉仕をしているときに、フッと湧いて出てきたのだと思います。
従って、この八八八の奇蹟は、将来もこの警備会社が存続し、「明主様の警備会社である」という意識を持って、社会に打って出るような人が担当する時まで、残しておこうと思います。私が認知症になる前に、そのような人が現れることを期待しているところです。
次回もお楽しみに!
by Mr.Right