真文明とはなにか 世界救世教教祖御講話 於 日比谷公会堂( 昭和26年5月22日 後半)

(七) 

 そうして一方知らせると共に、この浄霊というもの、これはなるほどいかなる病気もよく治ります。病気を治すだけのものじゃない、つまり魂を治すのですから、魂にある悪です。悪ってこれを分り易く言えば、野蛮性です。ーーその野蛮性を取ると言う事はできない。魂がなかったら生きていられないですから、つまり考え方が変わる。つまり悪い分子ですね、悪い分子を溶かす、そうしていい分子の方を多くする。それでみんながそういう人達になる。すべて良い事をする。良い事をしなければならないという事になる。

 それで、これは信者の人には、よく話す事ですけれども、今の人は何か悪い事をしたい、悪い事したいと。で、そう悪い事をしたいと思わなくても、良い事をするのが馬鹿々々しい。なんかこう、正直にやるのは損だと、体裁よく、要領よくしようと、こういうほうへ頭が向いている。処がこれはアベコベなんです。というのはこれは私なんかも、昔はとてもそんな事を思わない。うまく世渡りした方がいい、そうして、要領よくやる、それが利口だというように思った時代があったのです。けれども、段々信仰によって神様の事が分かるに従って、これは考え方がアベコベだった、というので今度良い事をしたい。いくらでもいいから、何か良い事がないかと言う事ばかり心がけるようになった。それでもう、良い事をするとなると、第一、人が仕合せになる事、人が気持ちがよくなる、嬉しくなる、満足するようなと言う事ばかり心がけるようになった。そうなってから私は非常に運がよくなった。まあ、信仰を専門にやる以前にそういうふうな気持ちになると非常に良い事ばかり集って、仕合せな事ばかり出て来るのです。ですから、これだけでも、世の中の人に知らせるならどんなにかいい事か分からない。そう言う現実的の事を体験するにしたがって、本当に神も悪魔もあるということがよく分かったから、段々段々色々なこの、信仰的修養ーーそういう事をさせられた。そして私は非常に大きな使命を持っているという事を色々な奇跡によって、まざまざと知らせられた。そしてメシヤ教と言う、いわば宗教をつくって、今日活動しているのです。

(八) 

 処でもう一つ私が言いたい事は、キリスト教にある最後の審判ですね。御釈迦様の言う仏滅の世と、ーーそれは色々な教祖、開祖が言われてますけれども、私は、この二大聖者の事だけにとどめておきますけれども、それは、最後の審判と言うのはどういうことかと言うと、ただ最後の審判だけでは何か神様がこうーー地獄でなくこの現世に閻魔様がでてきて裁くんじゃないかというように思うのですが、そうじゃない。これはちょっと、未信者の人には、分かりにくいんですけど、霊界と言うものがあるのですね、霊界ーー。この我々が物質をさわったり、見えたりするのはこれは物質界ですね、現界ーーそれからその奥に霊界がある。その中間に空気界がある。空気界までは分かっているけれど、霊界は分からない。ちょうどさっきの野蛮時代から文化時代、文明時代とこういうような順序です。この三段階のうちのその物質界、それから空気界、霊界とーー、この三段階なってます。処が世界の循環率--、循環率によって明暗ですね、暗くなったり明るくなったり。これが一昼夜の二十四時間にこれがあるのではなくて一年にも明暗がある。一年の明暗と言うものは、仮に冬は暗いと言う事になると夏は明るいという、こうなるんですね。太陽の光線から言っても夏が一番強烈なのです。冬は一番薄いんだからして、これも明暗になっています。これがまた、十年にも明暗があり、百年にも明暗がある。歴史上平和時代もあるし、また暗黒時代もあるのは、やはりそう言った一つのリズムなんです。

(九) 

 それから今度は千年にも万年にもある。それで今迄はこのやみの時代であった。暗い時代だった。今度明るい時代になる。明の時代ですね。そこで、さっき文明時代、文明の明の字を書く、明るいと言う字、化ではバケですから駄目。そうすると明るい時代になると、そうすると、今までの暗い時代のものが整理される。そして私の方で言うと夜の世界と昼の世界、夜の文化と昼の文化とーーこう言っておりますーーそうすると夜の文化でいらないものが沢山できて来る。昼間になると電灯やいろんなそう言うものがいらなくなる、というように、夜の時代のものがここでいらなくなることが滅びると言う事です。

 審判ということは夜昼を分けるのです。いらないものは先ずしまうか、あるいはこわしてしまう、これから明るいものを段々造って行くと、こう言う具合です。そうすると、今の、霊界が明るくなると、どういう事になるかと言うと、人間にですね、人間と言うものはやはり体と霊とその間に空気に相応すべき水分というものがある。水蒸気ですね。これが人間の体に非常にある。そういう三段階になっている内の人間の霊ですね。魂と言ってもいい。それが霊界に属している。霊界が明るくなると、それの明るさに相応しない魂の人は、どうしてもその相応するようにその曇りを取られるのです。取られると言って、何か故意にとる訳ではなくて、自然に浄化すべき、汚ないものを、奇麗に替えなければならない。そうすると魂の汚い人は、霊界が明るくなるにつれて掃除をされる、それが、ま、苦しみです。で、病気の原理もそういう事に説いてあります。それでやると病気と言うのはよく分かるのです。

(十) 

 今迄は霊と言う事を知らなかった。無視していた。さっき徳川さんの言われたように魂です、魂というものの働きというものは、大きなものです、大変なものです。私は、昨日一年ぶり位で来た人がある。処が一年ぶり位で一昨日その人の事をひょっと頭に浮かんで、ああ今どうしているのだろうと思ったのが、昨日来たので「ああ霊が先に来てるんだな」とこう思った。と言うのはこっちでーー、徳川さんが松並と言う人が、一生懸命に書いている、というのを思っているとその想念と言うものは向こうに行くのです。行って、その人の体に入り、頭に留まりーーすると、ふっと浮かぶんです。 

 逢おうと言って、来るようなものです。要するに霊線と言ってその人に交通するのです。これはこの霊線の働きなどということを。恋愛問題になんか解釈すると非常に面白いんです。けれど今恋愛問題の目的じゃないですからーー。これは信仰に入ったらそう言う事も分かって来る。そうすると、その恋愛と言うものは非常にいいものなんですけれども、あれはその、ただ、悲劇に終わる。また、どう言うものだと言う事を知るには、霊的の事、霊線の事を知ると一番よく分かる。これは馬鹿にできないのですね。色んな世の中の、問題や何かに、問題の上に女があるなんて言うーーいやな事件の裏には必ず女ありと言いますけど、ーーまあ、あれはつまり恋愛ですね。そういう事が分かると、大いにそういう悲劇や社会悪なんかがなくなるんだとーー。ま、それはそれだけにしておいて。

 今言ったような具合に霊です。霊の曇りを明るさに相応するようになる時に、病気位で済めばいいけれども、そうでなくてもっと強くすると、もう病気なんかに堪えられないで、その人は死んでしまう。病気と言うものも、少しずつ来るから病気で、あれでいいのですがね。あれで一遍に来たら倒れてしまう。最後の審判と言うのはそれなのです。そこで段々段々この霊界が明るくなるにつれて、そして一遍にやられることになると、その為に命を失うことになる。それが大量になる。大量になっては可哀想だからと言うので、この事を知らせる、と。知らせて助けなければならないと言うのが、神様の御意志である。で、私は神様に、それを命ぜられた。そして、こうしてお知らせするわけなんです。そうしておいて、私はですね。つまり釈迦とか、キリストとか言う人が、「天国は近づけり」と、今にいい世の中が来ると言う予言をされたーー予言をされたそれをですね、キリストや釈迦はただ予言者で、私は実行者なんだ、それを実行する、と。本当にその世界をして、病貧争絶無の地上天国を造ると、ーー造れと言う事を神様から命ぜられたのです。

(十一) 

 その代り私が作るのではないから、決して骨が折れる事はない。万事神様が御膳立しますから、ただ、形に表われたものだけを、やればいい。これは、非常な楽なもんです。しかし楽だと言っても、責任は重いんです。まあ、恐らく人類肇まって以来、私位大きな責任を負わされたものはないでしょう。そうするとそれによって、偉い人達の予言があって来るのです。ですから私の言うのは、もしキリストや釈迦の言った予言が、実際実現性がないとしたら、予言じゃなくて虚言だというのです。いわゆる虚言とは嘘吐きです。あんなに偉い人が嘘をつくと言うはずがないんだから、いずれは誰かが、実現されるものが出なければならんというような意味で、その担当者として私が選ばれた、とこういう訳なのです。私はこういう事を、こんな大きな事を言うって事は、実際つらいのです。あんまり大それた事でいいにくいものですから、今迄言わなかったんです。しかし段々段々今言う夜から昼間になる時代が迫って来ます。それで人を救うには早く大勢の人に、それを耳に入れなければいかんと言う訳で、今日初めて大勢の方の前で喋るのです。

 さっきノアの洪水の事をちょっと鈴木さんが言われましたが、あれもまあよく似ているのです。ノアの兄弟というのがありますね、兄弟がやはり神憑りになって神様から知らされた。「もうじき大洪水がある、人類の大半はそれに捲き込まれてしまう、だから一人でも多く助けろ」と言うのでノアの兄弟は非常に怒鳴った。知らせた処が中々信ずる人がなかった。それで信じた人はたった六人なのです。ですからノアの兄弟二人と合わせて八人です。八人だけは信じた訳です。そうしてどうすればよいかと言うと、方舟はこぶねを作れとこう言うのです。ノアの方舟と言うのは、ちょうど銀杏の実の形をしたものです。というのはこう言うふうになるのです。だから洪水の時もこの上に、猛獣だとか、大蛇とか上って来る。

(十二) 

 その危険を救うために考えた。方舟はこぶねを作ってそして待っていた処が、あれは、四十日雨が降ったと言う説と、百日雨が降ったと言う説がありますが、これはどっちみち幾日も続いて降ったのです。ーーそして段々段々その水嵩みずかさが増して、そして洪水になった。そうすると方舟に乗ったものだけが助かったけれど、あとの普通の舟に乗った人や、山の上に上った人は、みんな、猛獣や、うわばみやそういうものが上って来て食い殺してしまった。それで助かったのは、その八人だけが助かったのです。その子孫が今日の白人だと言うことになっていますが、これは大体間違っていないと思うのです。なぜならば、日本でも伊弉諾いざなぎ伊弉冉尊いざなみのみことですね。この二柱ふたはしらの神様は、あめ浮橋うきはしの上で、そうして剣をこの泡みたいなのをかきまわしてー―潮こーろこーろとかき回すと、そこへ島生みや国生みと言って、島や国が生まれたと、こう言う事になっています。あれは洪水に違いない。神道の方で言うと、潮干しおひわざ潮満しおみつの業と両方あると言うことになっています。潮干の業と言うのは、水をやす訳ですから伊弉冉尊は潮干の業をなすのです。それでーーたために島生み国生みと言うのは、あれは洪水の水を捨てたのです。今迄水底みなそこにあったなにが現われたとーーこういう事だと。

 それはノアの洪水の時だと思うんです。そう言うような具合で、今度は、キリストの――これは黙示録や色々ありますが、ヨハネは水の洗礼をすると、キリストは火の洗礼をすると言う事。ヨハネの水の洗礼はもうノアの洪水ですんだのです。今度は火の洗礼となると、それはやはり大変な、大きなことなんです。

 火の洗礼については、色々のまた、意味があるんですが、大分時間が来ましたから、これだけにしておきます。

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