御教え集31号 昭和二十九年二月七日 立春祭

    二月七日

      今年の節分について、もう少し詳しく話をしてみます。前にも言った事がありますが、節分というのは、古い時代に国常立尊という神様が世界を支配していたという事になっているのですが、その時分の事だから、世界と言ったところで全部だかどうだか分りませんが、まず日本を中心にして相当広範囲に支配していたに違いないのです。それで神様と言ったところで、やはり人間なのです。しかしその時分の人間は非常に霊が高かったのです。その時分は昼間の世界の終りぐらいだったのですが、ところが長い時代にだんだん人間が、夜の世界のために穢(ケガ)れに穢れて、霊的にレベルが低くなったわけです。それでよく「天神七代、地神五代」という事がありますが、天神時代というのは、天の神様……神道の方で言うと「天津系」「国津系」或いは「天津神」「国津神」と言いますが、天系です。大体日本民族は天系なのです。その天系だった頃は天照天皇という最後の天皇が支配していたのです。それで、これは何時かも言いましたが、天照天皇が日本を逃げて、皇后様だけが残って、それが天照大御神と、こうなっているのですが、それよりか前に国常立尊という神様が支配されていたのです。その神様は非常に厳格で、つまり至正至直で、ごく正しい事でないと許さない、というような事のために――これも神道の方にもありますが――大勢の神様が一致して押込めたのが節分の晩としてあるのです。その押込めた方の総大将が天若彦という神様で、そうして、もう国常立尊は世の中に出られないようにというので、艮(東北)の方角に押込めたとなっているのです。そうして、艮に押込めたからして艮の金神という御名前にもなり、艮の金神国常立尊となったのです。

    そうして節分の晩に豆をまきますが、“炒豆に花が咲いたら出てもよい、さもなければ永久に押込めてしまう”というわけで、それから炒豆をまいたのです。それは三千年としてありますが、いよいよ三千年たって、その国常立尊様が再びこの世に現われるその機関として出来たのが大本教です。ですから大本教のお筆先に

    「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」

という事を教祖は獅子吼したわけです。最初大きな声をして怒鳴ったのです。それで気違い扱いされて警察に留置された事がありますが、そういうわけで気違い婆さんにされたわけです。それが明治二十五年の一月元日です。ですから“梅で開く”というが、梅というのは、花は五弁になってます。これは五大洲を形取(カタド)ってあるのだそうです。ですから“一度に開く梅の花”というのは、世界が一度に開くという事なのです。ところが今年の節分は、いよいよ艮の金神様が表になる、つまり今まで三千年隠れていたのが表面になるのです。それで、大本教を開いたのは、霊界がそうなったのです。ところが今度は現界がそうなる。という事になったのは、この節分にお知らせがあったのです。それはいずれ言いますが、今はまだ言う事はできません。一年ぐらいは言う事はできないのです。それはやはり梅に関した奇蹟なのです。それは私は三、四年前から準備していた事ですが、そういうようなわけで、いよいよ表になるという事と、それからお筆先に「今度はこの世の閻魔と現われるから」

    という事があるのです。というのは、御隠退になっている時は、霊界に行かれて閻魔大王になるのです。閻魔大王というのは要するに霊界における審判の……今で言う検事総長とか最高裁判所長というような、そういった……裁きの最高の地位です。ところが“この世の閻魔と現われた”というのですからして、今度は現界的の裁きをされるわけです。これが審判です。これが又面白いのは、立春の日に京都の方の道具屋が閻魔大王の絵を持って来たのです。それで私は“ハハア、神様は、いよいよ国常立尊様が現界の閻魔の御働きをされるという事だ”という事を思って買いました。それは支那の元時代の絵ですが、閻羅王と書いてありますが、支那では閻魔大王の事を閻羅王と言うのです。吉田松陰の書いたものにもありますが、

「精神一到何事か成らざらん。われ王侯を得ずんば、死して閻羅王とならん」

という事がありますが、王侯というのは大名の事を言うのです。やはり日本でも閻羅王という事を言われたわけです。それで、家来が二、三人居ましたが、いずれ美術館に出します。神様は凡て型で見せますから、その閻羅王の掛物によってお知らせになったわけです。そういうような事があったのです。立春の日には、その掛物は知らなかったのですが、その掛物は午後に来たのです。それでこの節分から非常に浄化が強くなるという事を言いましたが、やはり合っているわけです。そういうようなわけで、今年から又非常に霊界が明かるくなるわけです。明かるくなると、善の方は非常によいですが、悪の方は反対に非常に苦しい事になります。最近いろんな汚職事件が出ましたが、こんなに一度に次々出るのは今までに例がないでしょう。これもやっぱりその一つの現われというように見られない事はないです。そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌(キラ)って、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわけです。それで「福は内、鬼は外」と言いますが、「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様という事になるからして、実は、一番善い神様、一番立派な神様です。それで面白いのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまく時には「鬼は内、福は外」と言うのです。それはやっぱりその時分から天若彦に対する反対のやり方だったわけです。そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うという事は、人間が正しい人がなかったからです。大抵穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こるわけです。それで浄化というのは災難や苦しみですから、そこで嫌ったというわけです。だから本当から言えば、若し方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。

    ただ病気と同じで、一時浄化作用が起こりますから、そこで怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。ですから他の宗教は、豆まきというと非常に盛んで、むしろ宣伝的にやりますが、救世教は絶対にやらないという事は、そういう根本的の理由があるからです。

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