御教え集31号  昭和二十九年二月六日  立春祭 

    二月六日  (節分について)

      今年の節分は非常に意味があるのです。私としても非常に大きな奇蹟があったのですが、それはまだ言うわけにはゆきませんが、いずれ話をします。この節分という意味は、大本教と非常に関係があるのです。ごく古い、神代というのですが、神代と言っても、空漠(クウバク)たるものでなくて、神格を得た人間が住んで居た時代で、いわばの前の昼間の世界といったようなものです。その時に世界を主宰していた神様が国常立尊という神様です。この神様は非常に厳正な神様で、間違った事は許さないというような政策をとったために、非常に多くの神様――八百万の神――から、その時分でも輿論が、どうもあんまり喧ましすぎてとてもやりきれない、だから押込めてしまった方がよいというので、排斥運動、押込運動をした結果、押込められたのです。それで艮(東と北の間)の或る地点に押込めたのです。そうして、再び世の中に出て来られないようにというので、豆を炒ってまいて、その時に炒豆に花が咲いたら出て来てもよい……尤も、炒った豆が芽を出すはずがないのですから ……それを条件のようにして押込めたのです。それで非常に悪い神様としたのです。これは大本教のお筆先にありますが、「悪神、たたり神と申して、われを押込めたのであるぞよ」というわけです。それで、鬼門は悪神だからして、鬼門に向って越したり、いろいろな事をすると恐ろしいというような説を作ったわけです。それで何事も、鬼門は恐ろしいというように教育したようなわけです。それが今もって続いているので、人は非常に鬼門を嫌うのです。ところが事実は反対で、大変な良い立派な神様です。ただ、あんまり正しすぎたためにそういう事になったのですが、その根本はやはりその時に夜の世界になったわけです。そこで、国常立尊様は火の系統の神様ですから、夜の世界ではまず隠退しなければならない事になるわけです。それがまず、お筆先には三千年としてあります。それでいよいよ三千年たったので、今度は御自分が、時節が来たので世の中に出る、と……出るについてはいろいろな……お筆先には三千世界の大芝居という事になってます。この押込めた系統の神様 ……総大将は天若彦尊という神様で――これはよく天邪鬼という事を言いますが――その神様が総大将で、あといろいろな神様がその一派に属したわけです。その押込められた時には僅かな部下を連れて隠退されたが、それから命が無くなって、死んで霊界に行って、三千年の間閻魔大王になったという事になっているのです。お筆先には

    「今度は、われはこの世の閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」とあります。という事は、審判をされるという事です。今までは霊界の死んだ霊を審判したが、今度は生きた人間の審判をするという事です。つまりもう悪は許さないという事になるのです。そのために大本教というものをつくったのです。私が大本信者になって、そういう事をいろいろ……表面的の事も、裏面━霊的の事もすっかり分ったの

    で、大本を脱退して、観音教から救世教というふうにつくったのです。

      お筆先の一番冒頭に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬであるぞよ」というような事が書いてあるのです。三千世界一度に開く梅の花と言って、梅というのは非常に重要な事になっているのです。それで艮の金神様は、霊界では閻魔大王となり、現界では観世音菩薩となるのです。観世音菩薩は兄()の花姫になるのですが、兄の花姫は神界のお働きで、伊都能売の神になるのです。これは兄の花姫と木の花咲爺姫とありますが、兄の花姫というのは兄(アニ)の花と言って梅になるわけです。梅が先に咲くから兄(アニ)の花になるわけです。それから木の花咲爺姫というのは桜の花になるのです。この場合は仏界のお働きで、木の花咲爺姫は観音様になるのです。富士山に行くと木の花咲爺姫を祭ってあります。それであそこで絵姿を買う事になってますが、あれは桜の枝を持ってます。その富士山の木の花咲爺姫は頂上の真中に祭ってあります。頂上の上り口の右側にあるのが、久須志神社としてありますが、これは九頭龍権現と言って、木の花咲爺姫の守護神になるわけで、龍で守護しているわけです。これが最初私に憑った龍神です。それで、木の花咲爺姫は桜であって、これは仏の働きになるのです。ですから兄の花姫は神様の働きになるのです。それで木の花咲爺姫は仏の働きだからして、最初インドに出られたわけです。ですから仏の方では桜の花になってますが、これはそういう因縁になるわけです。

      そこで今年の節分は、いよいよ艮の金神様がこの世の閻魔と現われるという最初になるわけです。ですから、これから審判が厳しくなるわけです。けれどもこれは最初からパッとやるわけではなくて、神様の方はジリジリと、つまりだんだん育つようになって行きます。そのためかもしれないが、最近いろんな汚職事件が重なり合って出て来ましたが、こういうのも一つの現われではないかととれるのです。面白いのは、節分の日は大きな奇蹟があったのですが、昨日は小さな奇蹟があったのです。というのは、道具屋が古い掛物を持って来たのですが、それは支那の元時代の物で、今から四百年近く前に画かれた絵ですが、それが閻魔大王なのです。お供が廻りに居て、よく画けてますが、表装がいたんでいるから、それを直していずれ箱根美術館に出しますが、これも小さな奇蹟です。今まで閻魔の絵というのは見た事がありません。そういうようなわけで、神様の御仕組は一歩前進したわけです。今年の節分というのはそういう意味があるのです。それで、そうなった結果はどうだというと、つまり善悪の立て分けという事になっているのです。という事は、善の方が勝っ てゆき悪の方が負けてゆくのです。そうすると救世教が発展するという事になります。こんなよい、素晴しい宗教が、こんなにグズグズしているわけがないので、ドンドン発展しなければならないわけです。しかし発展が遅いという事は、つまり悪の方が押えているからです。だから、これが分って、感心して、信者になり、人にもならせなければいけない、と、そう思っていながら、ついグズグズしているという事は、一方にそれを邪魔する霊があるからです。その邪魔する霊が、これからだんだん弱ってゆきますから、そうすると順調にゆくわけです。節分の意義を話したわけです。

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