前回に引き続き、参考資料として戦後の略年譜を掲載します。
昭和20年8月15日
終戦。敗戦に就いては弾圧の恐れがあるので本当のことは表立っては言えなかったが、「負けなければ本当の日本にはなれない」 と開戦二日目には海軍少将夫人には話されていた。又戦前既に疎開も指示されてもいたのであった。教祖の東京から箱根、熱海への移転は単なる疎開ではなく、戦後を見通した布石でもあり、勿論タイムリーな神業ではあるが、神定のプログラムでもあった。 63歳。
同年12月28日
「宗教法人令」公布施行で信教の自由となる。然し当時の法人令は届出だけでよく、いかがわしいものが多く、各地で問題を起こし社会の眼は厳しく、発展する者に対しては反感が向けられてゆく。
昭和22年8月30日
「日本観音教団」発足。65歳。前年は疥癬等の御浄化。占領軍の出方を見守る静観時期としても最適だった。それが之の年、日本国憲法施行。この頃より著作活動は一気に噴出す。
昭和23年10月30日
日本観音教団より一分会独立し宗教法人「日本五六七教会」を発足させ、観音教団と二本立にする。
昭和23年11月
大蔵省脱税の容疑で教団施設を家宅捜査。之は宗教法人として発足後間もない中の発展で経理事務が追いつかない状態で、記載漏れを指摘され、追徴金で一応の落着を見る。然し之がやがて大新聞に報道され、非難、中傷、嘲笑、誹謗の渦を作り大新聞もラジオも迷信邪教視的悪意に満ちたものとなり、その結果としてユスリ、タカリを集める事となった。
昭和24年8月25日
進駐軍による家宅捜査。投書による策謀でマスコミ、警察、占領軍に働きかけた結果である。金塊ダイヤ隠匿の伏魔殿に踏み込んだ筈の結果は空振り三振であった。
昭和25年2月4日
「日本観音教」と「日本五六七教」と合併し、世界救世(メシヤ) 教となる。夜昼転換の節にあたり、夜の世界に於ける仏としての観世音の働きも本来の神のお働きに入られ世界的となる。
そもそも観世音菩薩は日本の伊都能売(イズノメ)の神という神様が朝鮮から渡来した素盞鳴尊(スサノオノミコト)にその地位を狙われ、御位を捨てられ印度に渡られ化身仏、観自在菩薩となられて教えを垂れたのであり、その教えを受けた一人が釈尊であった。素盞鳴の妻神である乙(音)姫の世を観るとい事で観世音となり、如来の一段下の位菩薩となって陰からの救いをされたのが夜の世界であった。それが愈々元の御位に戻られる時期に至った。伊都能売の神とは絶対善という我でしくじられた国常立神の中庸的に変化されたお働きの神様である。然し中庸といえど伊都は厳(イズ)に通じてもいる。
霊界で閻魔大王が国常立の神でその裏側が観世音菩薩でもある。これは霊界で見る人の想念で変るとの事。この2月4日は節分(豆まき)の次の立春であり、国常立の神のお出ましになる変わり目となる日である。 「明主」と名乗られる。68歳。
同年5月7日
警察の家宅捜査。執事ら数名逮捕さる。教団に向けられた疑惑解明の為どうでもいい罪を作り、取り調べた。検察の目的は教祖の逮捕であった。奇蹟相次ぎ、急激に入信者が増え発展する一方で浄霊や自然農法に対する理解を超える教えの反発による世論が醸す疑心暗鬼に対する成行きでもあった。
同年5月29日
明主様同行を求められそのまま逮捕投獄される。教祖をして
「峻厳苛烈、戦慄の一語に尽きる」
とまで言わしめた程の苛酷な言葉による拷問であった。身に覚えのない事を聞かれても分るはずもなく眩暈による昏倒も数回、心身の限界を感じ最後は部下の生霊を呼び出して、数字を聞き出し調書を作り上げた。6月19日釈放。此時のマスコミ映像フィルムが残されているが実に格好よく、心打たれるものがある。これから3ヵ月後に裁判となりS27.12.24判決が出る。3年間の執行猶予つきの懲役刑であった。教祖に言わせれば
「短期間の大発展に対する恨みや妬みがあるはずだから有罪判決はそういう人々の思いが消えるから結構な事だ。」
と言って控訴はしなかった。留置の際の取り調べ官以外の警察署長はじめ身の周りの世話人、獄中の人にまで感銘、感化を与えた教祖であった。然しこの判決に納得しない弁護人、教団外の関係者は直ちに控訴し2年後のS29年、自白の任意に疑いあり即ち自白の強要による犯罪の捏造として無罪となる。検察は敗訴。
同年6月15日
静岡庵原地区警察署から刑務所に移される。独房の中で神秘な経綸が行われる。S元年に腹中に宿った光の玉に最高神の御霊が天下られた。これにより神は教祖を自由自在に動かす事になり教祖の思いによる行動そのものが神の意思となった。神人合一である。「之から此神御魂が段々御育ちになり、成人されるに従って、玉の光は漸次輝きを増し、将来大偉徳を発揮さるるに到のである。」と。この月に朝鮮戦争起る。
同年12月
浄霊法確立。それまで相手の身体に触れつつ行っていたものを一定の間隔(約30センチ)離して身体には触れない。
「神霊の光が私から霊線を通じて、みんなの御守りに止まり、御守りから其の霊光が掌を透して、病人の患部へ放射されるのであるから、之からは出来るだけ、力を入れないように、軽い楽な気持ちで霊を放射すべきである。」
「然し唯こうすると言っても、霊が通るように出来るだけ遠く迄、霊がいく様にすれば良い。力を入れないで、霊が通る様にするんだから難しいんです。要するに熟練ですね。」
昭和26年5月22日
日比谷公会堂で「新文明の創造」につき講演。69歳。この年2月より始まり昭和28年初めまで全国で行われる。衆院議員、新聞支局長、舞踏家、徳川夢声氏等著名人も演壇に立つ。
同年5月29日
第一回関西巡教(5.29~6.1)。以後昭和29年迄春秋2回ずつ行う。この折には美術研鑽を兼ねるに於いて行く先々で奇蹟的出来事見せられる。
昭和27年6月15日
箱根神仙郷に「箱根美術館」完成。
同年10月18日
京都嵯峨の広沢の池池畔の土地を購入。土地に限らず、美術品、庭木にしても過不足なく、無理なく自然と入手出来ることはどう見ても人間業ではない何かを感じさせずにはおかない。
昭和28年2月11日
米国布教開始。ハワイにおいて翌年には1500人になる。この年1月1日「アメリカを救う」出版。アメリカは物質文明の代表、日本は精神文明の代表で物質は緯、精神は経で経緯結んで本当の文明が出来る。という意味で海外ではアメリカが最初であった。去年サンフランシスコ講和条約で独立国家となったばかりであった。
同年6月15日
箱根神仙郷完成。箱根は火、熱海は水、京都は土で火水土、日月地、五六七、ミロクの世の天国の雛型が完成することになる。
同年10月16日
熱海瑞雲郷に「救世会館」上棟式。
同年12月1日
「自然農法普及会」発足。
昭和29年2月4日
尾形光琳作「紅白梅図屏風」入る。美術品の収集には戦後のどさくさの中以外には絶対に手に入らないと思われるものが次々と持ち込まれた。之こそまさに神業で、霊界で美術品所持者の祖霊が手柄を立てんと働いたのであった。
同年4月19日
脳溢血症状の御浄化に入られる。浄化に入って5日後、世の大峠の様を見せられる。床に臥しうつらうつらとしていて俄かに滂沱と涙を流す。
「それは私の想像していたよりも、実に酷かったので、非常に悲しい思いがしている。結局、人類が亡びる事を一番悲しむのは誰でもない神だよ・・・」と。
同年6月5日
メシヤ降誕宣言。熱海碧雲荘にておもだった資格者を招集し面会。この面会時、資格者は庭に敷かれた*粗莚(むしろ)に通され、審判の型となる。
同年6月15日
メシヤ降誕仮祝典、救世会館にて挙行。呼称を「明主様」から「メシヤ様」となる。
同年11月9日
救世会館にて新聞記者と会見。
同年12月11日
熱海瑞雲郷に「水晶殿」完成。この日一泊されるが午後一時頃水晶殿より光の柱天空に向かって立ち上る。
昭和30年2月4日
自分の足で歩いて救世会館で挨拶される。之が最後のご面会となる。
同年2月8日
野々村仁清作の藤壺入手。
同年2月10日
熱海水口町の碧雲荘にて午後三時三三分昇天。9日昼すぎからの意識不明となる死の直前まで神業は遂行された。8日には工事の進捗状況を見て回られ、後日入る予定の仁清の藤壺を愛でられて現界での経綸を終えられた。享年73歳。
言い知れぬ神との交流の喜びと、奇蹟による人々の感謝、神格に打たれた信者の誠を受け、或は光を求めて参集する龍神の喜びを感じ、至上の境地にあるかと思えば、暗黒時代の茨の時期を乗り越え、分刻みの神業の中にも映画を鑑賞し花を愛で美術品の鑑定、展示案内までこなされた濃密といえば余りに濃密な人生であった。
神と共にあるということが、如何に過酷な事であるかと、そしてそれを感じさせないで、ひたすらに努力された一生であった。
*粗筵・・・・・・真偽は不明
八尾屋