御教え集14号 昭和二十七年九月二十七日 秋季大祭 ※メシヤ教には難行苦行はない、楽しみながら浄化される

 それから昨日の余興の時に、内海突破君が此処に来て、二十分ばかりの予定だった処が、なんだか気持が良いのでウカウカと、四十分か五十分になりましたが、どうも此処に来ると気持が良いという事を言われてましたが、之はそのわけで当り前なのですが、それであゝいう人達――芸能人社会にはメシヤ教は中々認められて来て、ボツボツ信者になる人もあるのです。未だ未だ信者になる人も増えるでしようが、然しあゝいう人達が信者になるという事は大変な力なのです。というのは、話なり歌なりの言霊を発するのに、其人達はそれ丈身魂が浄ってますから、それから発する言葉によって大衆の魂を浄めるという働きになります。それで、之は耳から浄めるのです。耳から浄化するのです。それから美術館とか斯ういった地上天国――之は段々箱根から熱海になって京都にも出来るのですが、之は目から浄化するのです。それから色んな文章――新聞、雑誌というのは、文字から浄化する。斯ういうのは一つの浄化の方法になるわけです。処で、病貧争絶無の世界というのは、凡てそういった苦しみ悩みというのは浄化されるのです。そうすると人間が浄化されるべき汚い物を持っているから、そこで人間がその汚い物を除るに従って、浄化の必要がないから、そこで苦しみが無くなって来るというわけです。だから病貧争絶無の世界というのは、浄化の必要のない世界、浄化が無くなる世界です。それがミロクの世です。で、世の中のあらゆる苦しみは浄化して――茲で知って置かなければならない事は、今迄は苦しみによって浄化されたのです。で、中には求めて苦しみをして、そうして浄化される方法もあるのですが、宗教的の難行苦行はそれなのです。つまり浄化――魂を磨く、其為に色んな難行苦行――山に籠(コモ)るとか断食するとか水を浴びるとか、色んな苦しみをして、その苦しみで穢(ケガレ)を減らそうというのです。ですからバラモンなんかは、羅漢みたいに難行苦行して悟を開くというのです。悟を開くというと魂が磨けるから、穢が除れる、色んな物が見える、というのでそういう方法をとったのですが、之は夜の世界だとしたら仕方がないのです。処がメシヤ教はそういった難行苦行でなく、楽しみながら浄化されていくという方法をとっているのです。それで今言った様な芸能とか美術とか、そういった、みんな楽しみつゝ浄化されるというのとは大変な異いです。之はつまり夜の世界のやり方と昼の世界のやり方との異いさです。だからメシヤ教には難行苦行はないのです。だから何時も言うのは、苦心惨憺なんて言葉はないのです。だから斯ういったお庭だとか美術館を造るのは随分御苦労なさったでしようと言うから、私は返事に困るのです。御苦労なんて殆どしないのです。楽しみ楽しみやったのです。処が今迄の事は、何かやるのに苦心惨憺し苦労をうんとしなければならなかったのです。だからそこの異いさがある。浄霊するにも、今迄の様に力を入れてうんとやらなければいけないというのは、いけないのです。力を入れないで、気楽にすればその方が効くというのだからあべこべです。だから苦労したり色々する事だと旨くいかないのです。

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