それから、お蔭話について。
御論文「御蔭話を読んで」【註 栄光一五一号】
この原稿は『結核信仰療法』の一番終いに医学の欠点を並べてみたんですが、余程参考になるから、今読ませます。
御論文「医療誤点の種々相」【註 栄光一五二号】
それから、近頃よく感じる事があるんですがね。私がちょっと、簡単に言った事でも、非常に重要な事があるんですよ。ですから、それを聞いた人は――いつの間にか忘れちゃって、うまく行かないことがよくあるんです。よく聞いてみると、こういう点があるんですね。すなわち、宗教の教祖なんていうと、神懸かり式です。神懸かり式というよりか、神様にお伺いを立てる行り方ですね。神様に伺うとこういう御示があった。そう言うと、大変ありがたく思うんですよ。そこで聞いた人は、これは神様のお指図だとか、戒めだとか言って、非常に強く印象されるんですね。ところが、私がチョイチョイと軽く言うから、そういう様な――何んて言うか、有難味と言いますか、強い刺激を受けないですね。そういう事がよくあるんです。
それからたまに、昔からこれは始終あるんですが、信者の中に神懸り的になって、神様はこうおっしゃるとか言って、それを一々信ずる人があるんです。ところがそういうのは、神様と言っても、下――下級の神様だから、いずれボロを出しちゃうんですが、一時迷わされちゃうんです。
そこで、私の神様――と言うのは変ですが、はっきり言ってみると、今までの教祖とか、そう言う人達と違うんですよ。違うという事は、位が違うんです。仮りにキリストにしろ、天の父の思し召しによって、自分は生まれたとか、あるいはエホバがこう言われたとか、そういう事をよく言われてますね。それから天理教祖とか大本教祖にしろ、神様はこうおっしゃったとか、ああおっしゃったとか、よく言うんです。そして、そういう神様を始終拝むんですよ。私は拝まないんです。というのは、私の腹におられる神様は――私が言ったりしたりする事は、神様が直接するんですから私が拝む事はない。それから、拝むという必要はないんです。私のお腹の中におられる神様は最高の神様ですから、拝まれるのは当たり前ですが、こっちで拝む神様はないんです。みんな下の神様ですから、私の思うままにやっていれば、それが最高の神様がやられているんですから、そこで私は、神懸り的な――私が御神体に向かって礼拝しないと言うのは、そういう意味なんです。これは今までの宗教には一つもないんです。それは、釈迦でもキリストでもマホメツトでも、やはり神様を拝んで、お指図仰いだり、色々するんですが、私はそう言う必要はないですから、それだけに力も――まあ字を書いても、その字が働くという様な訳でね。これは本当言うと、字を書く前に羽織、袴で祝詞を奏げて、神様にお願いして、そうしてやるものです。それは、今までどこの宗教の教祖にしろ、色々な――御守など作る場合も、そうしているんです。私は、裸でアグラかいて書く事もあるし――それで良いんだから、別に面倒な事を言わなくてもね。そういう事を知ってもらえば良いんですね。だから、他に神懸りなど出ても、問題にはならない訳ですね。こういう事は、今まで余り言いたくなかったから言わなかったんですが、そうでないと、他の神懸りを大層ありがたく思いますから、それでお話しする訳です。