真の救いとは、永遠に、魂を救う事である。又、一生を通じての抜苦与楽(ばっくよらく)である。それが出来なければ、宗教としての価値はないのである。病気を治さないで、慰安をして与(や)る事よりも、病気を治して、健康体にしてやるのが、真の救いである。貧乏を我慢しつつ、安心立命せよと言うよりも、金に困らないやうにしてやるのが、真の救いである。此世は厭離穢土(おんりえど)であり、火宅(かたく)であり苦の娑婆であるから諦めよ、我慢せよ、悟れよ、と言うよりも、斯ういう苦悩の娑婆をして、天国楽土たらしむべく、積極的に活動するのが、真の救である。其の救いの効果的現われに由って其宗教の価値が定まるのである。
然し、それ等の事は、私が言う迄もなく世の宗教家達は、みんな、知り抜いている筈である。然し、いくら知りぬいて、努力はしてもどうにもならないから、是非なく、苦のまま諦めろと言い苦のまま安心立命せよと説くのは、余儀ない事である、一種の遁道(にげみち)である。そんな諦めの鼓吹ではいくら笛を吹いても、大衆は踊らない、イクラ太鼓を叩いても集まらない、是(ここ)に於て、社会から、宗教は、無用の存在として非難を享(う)ける、それが苦しいのだ、苦しいから何かを行(や)らなければならない。其防弾チョッキとしての、宗団の社会事業経営なのである。寧ろ同情すべきではあるが、どうか一日も早く、宗教本来の使命に覚醒して、真の救いに精進して貰いたいのである。
最後に言う、人間の智慧でやる宗教の最後は、社会事業となって了(しま)う。神の力と、神の智慧で行く宗教は、奇蹟から奇蹟で、本当に世を救ってゆく。