敗戦の教訓 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

 日本が敗けたという事は、日本が救われたのである。成程一時は悲観のドン底に陥り、上下を挙げて未だ曽て経験せざる混迷状態に陥った事は吾々の記憶に新たなる処であるが、実をいうと、それは一時的であって、将来を想う時は悲観する処ではない、大いに楽観すべき事と思うのである。それに就て私見を述べてみたいと思う。

 抑々、日本は彼の日清、日露の二大戦勝によって有頂天となり慢心をし、不知不識の間に独善的国家観が生育し、他民族を軽侮するようになり、終に侵略戦争は開始されたのであった。文明を破壊し、他民族を殺戮するのみか、自分等の国土と幾万の生霊をも犠牲にし、敵の空襲下に惨澹たる荒土と化せしめたのは何たる愚かな事であろう。それのみではない、終戦後の食糧飢饉、住宅難、インフレ、交通地獄等々人民は全く塗炭の苦しみに喘ぎつつあるというのが今日の実状である。

 一切は原因があって結果がある。日本が敗戦したという事は必ずその原因がなくてはならないが、それは余りにも瞭(アキラカ)である。勿論少数特権者の野望の為に、怖るべき罪悪を重ねた事には違いないが、敗戦という結末は神が之以上罪を累ねる事を許さなかったからである。大多数が期待してゐた処の神風が予想通り吹いたのでる。満洲を、朝鮮を、台湾、琉球、千島を返還したという事は、他人の所有権を暴力によって奪いとった−−それを返還した迄であって、之が神風でなくてなんであろう。不正な富が永く専有を許容される筈はない。そんな都合の好い神国が地球上にあり得る訳はない。そして日本は敗戦によって如何に清浄化されたであろう。

  而も神は、今後再び罪悪を行う事を不可能ならしむべく武器までも取上げ給うた。少数の罪悪張本人達は、気の毒乍ら峻厳なる神の審判(サバキ)を免れ得べくもなかった。それのみではない、日本の人民も世界の一等国民として自惚(ウヌボ)れ驕りに耽りつつも、アジアに於ける他民族の困苦などは何等介意しなかった。特権者は権力を濫用して人民の自由を束縛し、財閥は限りなき欲望の為に政府と結託し、倍々(マスマス)富の増大を計り、申訳ばかりの慈善事業を以て社会を欺瞞して来た。二大政党はあっても財閥の傀儡(カイライ)にしか過ぎない。無産者は働けども働けども食えない。発言権も民権もなく、ただ機械の如くその日を送ってゐたに過ぎなかった。偶々改革者が出でんとすれば忽ち牢獄へ投ぜられた。此様な状態の下に特権者等は泰平を謳歌し、歓楽を極め、大邸宅を占有し、数台の自動車を有ち、凡ゆる栄華に耽り、飢に哭(ナ)くものなど歯牙にもかけようとしなかった。斯様な不合理な状態が決して長く続こう筈はない。果せる哉、時は彼等をして没落といふ当然なる運命を甘受せざるを得ない事に立到らしめ、洵に気の毒の極みである。其当時貧困者を救いたいと思ったと同様に、今日の没落者を救いたいと、私は痛切に思うと共に、彼等に、その最も適切なる方法を知らしめたい、それが即ち信仰である。


 先づ彼等自身が境遇の大変化は当然の神の審判(サバキ)による事であるを知るのが、救われる第一歩である。悔改め、信仰の道に入ってのみ真の安心立命を得る事を知るのである。それによって以前の栄華時代よりも一層の安心と、幸福の生活に入るであろう事を、私は確信するのである。

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