本紙再刊に就て (栄光六十六号 昭和二十五年八月二十三日)

      本紙は、去る六月三日発行の六十五号迄で休刊の止むなきに至ったのは御承知の通りである、それと同時に五月八日本紙編輯主任井上茂登吉氏は、脱税問題の容疑で静岡県検察庁へ収容され、次で同月二十九日私も同様の運命に遭ったのである、然し乍ら私も井上も法に触れるような事は全然なく、全く当局の調査不充分の為であった事は勿論で、何れは吾々の公明なる真相の判る時の来るのは言うまでもない、昔から宗教に法難はつきものとは言い乍ら、時々斯ういう事があるのは、吾々が不徳の致す処でもあらうが、又吾々の心魂を磨かせ給う神の深き恩恵に外ならないとも信ずるのである、由来、使命の大きい者程苦難も大きいと言はれてゐるにみても、又何をか言はんやである。

      私は二十二日間収容の上六月十九日出所したのであるが、それから一週間目に朝鮮問題が勃発したのである、今は朝鮮という一区域に限られてはゐるが、どちらも米ソの二大勢力の冷たい戦争が熱の戦争になった前奏曲といえよう、之も無論世界的大浄化の最初の表はれであって、最後の審判の予告篇ともいえよう、斯様な状勢を見るにつけても、吾等の救世的活動舞台は刻一刻と近寄りつつある事を意識せずにはおれないのである。

      今日の新聞紙に、彼のインボデン少佐の事が載ってゐるが、之は非常に面白い観方と思ふ、少佐曰く『如何なる国家と雖も、善か悪かのどちらかであって、中立国というものはあり得ない、従って此際どちらか決めるべきだ』との言であるが、洵に痛快極まる言である、然し私はひとり国家のみではなく、社会全般に渉って何事にもいえると思う、勿論宗教と雖もそれに漏れる筈はない、ただ宗教の異う処は、善と想って行ってゐる事が、往々結果に於て悪になる場合もある。此点宗教人たる者大いに戒心すべき点であらう、又法に於てもそうである、恰度私が今回の容疑で取調べを受けた際、私は思った。善を作る為の法律も行過ぎると、反って悪になってしまう事実である

      又本紙も、従来の『救世』を『栄光』と改題し、益々精進、神の御目的たる救世済民の実を挙ぐべく、邁進の決意を固めたのである。

      茲で申したい事は、大抵の信徒諸君は最早御存知であらうが、今回の事件を機とし、本教全般に亘り、機構を改革した事である、先づ私は今迄救世教教主としての地位を退き、今後は布教にのみ専念する事となったのである、之も御神意に因る事は勿論で、人間の考えでは到底判り得ない事は、いつも時の進むに従って深き御経綸からであった事を悟るので、之は常に経験する処である。

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