御教え集18号 昭和二十八年一月二日② (法難→散花結実) 

      知ってのとおり、私の事件も暮の二十四日にようやく片付いたので、久しぶりに晴れ晴れしたお正月を迎えた様な気がしました。気持がいいのと、それからいろいろな御神業の模様も、丁度春になってこれからそういう工合になっていくのも時節のためです。

      裁判の事について暮の時に少し話をしましたが、まだもう一言話したいと思います。私は裁判について長い間非常に気持が悪かったのです。というのは、普通の裁判なら同じ気持が悪くても大した事はありませんが、私の裁判において一番気持の悪い事は、自分に気をとがめる様な事が少しでもあればいたし方ない、随分酷い目にあっても自分の罪次第いによっては我慢ができますが、何も悪い事をしなくて罪人扱いされるのですから、その気持の悪い事は大変なものです。ともすれば憤激が起ってしようがありません。何もしないのに大変な悪い事をした様に見られるのではないが、大体の形です。その気持の悪い事と、それから公判廷の空気をよく見ますと、その空気たるや実にいやです。よくああいう所を地獄と言いますが、地獄なら結構です。地獄よりずっと悪いのです。なんとなれば地獄は公平なのです。罪が重ければ酷くしますが、罪が軽ければ軽いでちゃんと合っていますが、こっちは罪の公平がないのです。一般の人はそうまでないでしょうが、私はそういう気持の悪さが長い間続いたという事は実にいやでした。それがいよいよ今年の正月からそういうものが無くなったので、丁度覆い被さった黒雲が晴れるという様な気持がします。しかし今度は神様の方から言うとそれが必要だったのです。これは一昨二十五年に散花結実という事を言いましたが、あれで花が散ったわけです。ですから検察庁の役目は、つまり低気圧の役目をしたわけです。それで花を散らして、その時分に迷ったり一時離れたりした人は、散った花びらなのです。それで暴風のあとは、泥に埋まって跡形もなくなるという様な人も、幾らかはないでもなかったのです。それからいよいよ実(ミ)の子供が出来て、だんだん育って来たわけです。ですからああいう事件後は一時は、花びらが無くなったからして非常にさみしい感じがしましたが、今度はだんだん実が育って来ますから、非常に堅実にじりじりと育って来たのです。それで実の形が大分わかる様になって来ました。それが経綸の上によく現われているのです。そのうちの二、三を話してみます。

    幾年振いくとせぶり いと爽やかな心もて 新春にひはる迎ふ今朝のひととき

    散花結実 はや越し方の夢とすぎ の実み育たう時となりぬる

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