迷信邪教 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

今日新聞雑誌ラヂオ等、盛んに迷信邪教に瞞(ダマ)されるなという事を警告してゐるが、成程迷信邪教は昔から断えず輩出してゐるばかりか、今日は最も甚しいようである。然し全部が全部迷信邪教とはいわれまい。その中の幾分かは今日立派な宗教として残ってゐるからである。実をいえば、今日世界最大の宗教として隆盛を謳(ウ)たわれてゐる彼のキリスト教にしてもそうである。その立教者であるイエス・キリストが、生存中は迷信邪教として遇され、遂にあれ程の刑罰を受ける事になったのを見ても肯けるのである。茨の冠を被せられ刑場へ曳かれてゆくその傷ましき御姿に対し、それを阻止すべき一人の義人も表われなかったといふ事実にみても、如何に時人から迷信邪教視せられてゐたかが察知せらるるのである。

我国に於ても遠きは法然、親鸞の遠島を初め、彼の日蓮が法華経を弘通するに当って、その法難の如何に苛酷であったかといふ事や、近きは天理教開祖の中山ミキ子刀自の二十数回の留置所入り、数回の入獄等の例にみても明かである。唯だ釈尊のみは全然迫害を蒙らなかった事は、その出身が皇太子であったといふ理由による為であろう。

私としても今日新しく発生した種々の信仰を観る時、その余りに低劣なるに顰蹙(ヒンシュク )せざるを得ない事がある。もし私が当局としても厳重なる取締りをせざるを得ないと思う程で、社会に迷惑をかけ人騒がせをさせる神憑的信仰や、到底見るに堪えない多数の信徒が踊り狂う狂態や、突飛な予言をし、世人に恐怖心を与えたり、騒音によって近隣を悩ます等の信仰も本当のものとは思えない。又中には金儲けの目的を以てする宗教企業もあるが、之等凡ては時の推移と共に何時かは没落し消滅するものである。

広い世間には恐ろしい信仰がある。それは一種の脅迫信仰である。例えば何年何月何日には大変事があるから、助かりたい人は何々教に入らなければ危ないと言い、そうかと思うと一旦入信した者が脱退しようとする場合、その先生が恐ろしい事を言う。 「貴方が此信仰を離れたら最後、必ず死ぬ」とか、又は「一家死に絶える」というような脅しを言って脱退を止めようとするが、之等は何れも正しい行り方ではない、一種の脅迫であって、恐ろしいから信仰を続けるという事は甚だ間違ってゐる。元々神仏は愛であり慈悲である以上、脅迫などある筈はないのである。

有難い神仏であるから入信したいというのが本当の信仰である。又斯ういう事も警戒しなければならない。それは執拗に信仰を勧め、何度断わっても来ては勧め、又は長時間に渉っての種々の行事を行ひ、為に家業に影響を及ぼす事になるので、斯ういう信仰なども本当のものではないと私は思うのである。

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