【体験談Mr.Right】№18 もしかしてミロクの型?

 今回は、新潟に単身赴任していた時に取り組んだことについて、いくつかご紹介したいと思います。

 その当時の布教のあり方は、私が経験してきた北海道時代とは全然違いましたので、本当に新人専従者のように何も分からないような状態でした。専従者は、毎月報告書を提出するようになっていましたが、それらは、チーフを通して地区に送られていました。ある時、私の報告書を見た地区の幹部から、直接電話があり「あなたは教団の方針に従わずに、センターに信者さんを集めようとしているのか。」とひどく注意されたことがあります。

 その当時、今もそうだと思いますが、活動の中心は分院を中心としたネットワークでした。従って、センターでは感謝祭でも30人前後しか参拝されませんでした。年に二回のセンターでの慰霊祭でも、50~60人くらい参拝されたらいい方でした。私が現場にいた20代のころは、「参拝、浄霊、奉仕」というスローガンで布教所(センター)での会合や奉仕があって、教団の方針は布教員や代表世話人が地域に落としていくという在り方でしたので、そのことを理解するまでには相当な時間がかかりましたし、消化不良を起こしていました。

 私は、分院会議を開く前に、方向性を明確にしておく必要があると思って、チーフや代表格の分院さんに相談したところ、以前は事務局会を開いていたということでした。だったら、早く言ってよという感じです。前任者からも引継ぎもされていませんでした(もしかしてイジメ?)。赴任してから半年以上も経ってからのことでしたが、十数名いる分院の中から四名を選出して、事務局会を開くことにしました。その中の一人が、№12に出てくるKさんで、入信者やMOA会員のお導きが一番多く許されていたのは、Kさんのネットワークでした。その点でも、とても頼もしく思っていましたし、何よりも気持ちが通じていたように思います。

 私が、地区の幹部から厳しく注意されてから数か月後のことだと思いますが、事務局会の中で代表格の分院さんが、「以前は大勢参拝していたが、今はガラガラだ。過去最高は108名の参拝が許されたものだ。」と言いました。私は、「過去を懐かしんでいても何にもなりませんよ。多くの人が参拝されると神様の光も強くなるといいますから、もしよかったら、次の慰霊祭の時に過去最高を更新しませんか。」とボールを投げました。事務局の皆さんも、当時の教団の方針に、それなりの違和感を覚えていたのかも知れませんが、全員が分院会議に提案しようということで一致しました。分院会議でもほぼ全員が賛成して、毎回の会合で参拝予定者を掌握して報告することになりました。

 こんな取り組みは、新潟県下でも初めてのことでしたので、チーフには地区に対して内緒にしておいていただくようにお願いしました。私が担当していたセンターは面白いところで、人数は少ないですが感謝際にはMOA会員や家庭内の未信者さんも参拝に来られていました。分院会議の都度に、設定した目標数に対しての確定数、及び今後の予定数を発表していただきました。このような営みは、しばらくしたことが無いので、生き生きとして取り組んでくれていたネットワークもあれば、勘弁してくださいという感じの分院さんもいたのは 確かです。

 慰霊祭まであと1ヶ月半くらいのタイミングでの感謝祭で、私は「最後のご案内活動を徹底しましょう。1回2回ご案内していい返事がもらえなくても、諦めないでください。しばらく間を置いて3回目の案内をしてみてください。そして大事なことは、3回で止めることです。それ以上やるとしつこいと思われて、信仰が嫌いになるような逆効果になりますので、何よりも誠意を示してご案内することが大切です。」というような話をした覚えがあります。その時、最前列で拍手していたのが、実は未信者さんでした。私は初見でしたが、信者さん以上の反応にビックリしました。

 分院さんもメンバーさんも本当に頑張ってくれました。分院会議の都度に確定数を確認してきましたが、慰霊祭当日の二日前の時点で、確定数は100名を下回っていました。私は皆さんに感謝しつつも、チーフに対して記録更新は難しいという報告をしました。私は、前日の夜まで分院さんに電話をして、確定数の確認をしました。それでも、100名を超えませんでした。私は、やっぱり無理だったのかと、記録更新を諦めていました。

 そして、慰霊祭の当日を迎えました。分院さんはじめメンバーさんのご案内活動が功を奏して、今までにない位の方がご参拝に来られていました。私自身初めてお会いする人が何人もいて、本当に賑やかでした。信者さん同士でも、久しぶりの再会に会話が弾んでいました。祭典が始まってしばらくして、事務員が「スタッフ。記録を超えました。2名増えて110名です。」と報告してくれました。その時私は、「Tさん、あなたは、○○さんのお腹の子供をカウントしましたか?」と言っていました。Tさんは「カウントしていません。」と答えました。私は、「○○さんのお腹の子も、今日この時にご参拝が許されている命ですよ。生まれていなくても、この世界に生きている命です。何名の名は、名ではなく命です。あなたは、110名と言いましたが、その子を入れると111命になりますね。つまり、明主様は、過去最高の参拝数に対して、プラス3命の証をくださいました。何名参拝したかは、頭数の人数じゃないですよ。どれだけの命を有している人が参拝しているかですよ。」というようなことを言っていましたが、言った私自身が何故そのようなことを言えたのか不思議でした。

 そして、半年後の慰霊祭には、更に6命プラスの117命の参拝が許されました。分院会議では、次の目標を検討しましたが、皆さんが3命プラス6命と来たので、次の目標は9命のミロクですねと、更に盛り上がりました。ただ私はその頃に本部に異動になりましたので、その後のことは承知していませんが、すでに3と6で、ミロクの型を実現していたと思っています。

 丁度その頃、№13の中に出て来る獅子舞の獅子のように歯をカチカチ鳴らすHさんの孫の子供にもご浄霊をしていました。というより、Hさんの娘さんもお孫さんも、その頃はセンターから遠ざかっていましたし、誰も訪問しようとしていませんでした。その中で、私は飛び込みでHさんの娘さんにお会いするために訪問しました。はじめは、拒否反応を示していたように思われましたが、何度か訪問している内に、家の中に入れてくれて、娘さん(お孫さん)にもお会いすることができるようになりました。

 拒否反応を示すくらいいろいろあったのでしょう。しかし本質的は救いを求めていたと思います。お孫さんの子供は、生後数か月でしたが、アトピー性皮膚炎がひどく、ご主人は信仰に理解がなく、お孫さんはその狭間で過呼吸症候群にも悩んでいました。明主様を信じていても、その救いを専従者や信者さんやセンターに求めることができない事情があったのでしょう。そういう人の心の扉を開いていくのが、専従者の使命ではないかと思います。

 アトピーの子供は、いつも泣いていました。最初は、母親が抱いた状態でご浄霊をさせていただいていましたが、泣き止まないので私が抱きながらご浄霊をさせていただくようにしました。私が抱くと不思議と泣き止みました。下手な子守唄を歌いながら、脳天や眉間、肩周辺、腎臓周辺をご浄霊させていただきました。その内に、すやすやと眠るという感じで、段々と母親も信頼を寄せてくれるようになりました。そのような営みを継続する中で、Hさんの娘さんお孫さんそして曾孫さん(赤ちゃん)の三代揃って、前述の慰霊祭にもご参拝されるようになりました。慰霊祭の時だけでなく、センターにも通ってご浄霊をいただくようになりました。私が、本部に戻ってからのことですが、「アトピーがすっかり良くなりました。」といって、写真を同封した手紙を送ってくれました。有難いことでした。このご一家の話だけでも、一つの体験記を書くことができるのですが、とりあえずここまでにしておきます。

 また、分院の奥さんが乳がんを患ったということで、ネットワークや分院さんもご浄霊に取り組んでくれましたが、私も早朝のご浄霊に取り組ませていただきました。その頃の私は、センターに寝泊まりしていましたが、朝拝を終えると、集会やご浄霊のために出かけることが日常でした。そのために、朝7時にセンターでご浄霊をさせていただくようにしました。当初はだいたい一時間を目安にしていましたが、段々と来るのが早くなって、6時半になり、6時過ぎに来るようになっていきました。

 左乳房の癌でしたが、本人もご主人も全摘手術を覚悟した上で、ご浄霊を受けていました。当時のセンターには、健康セミナー用の簡易ベッドがありましたので、ベッドに横になってもらってご浄霊を取り次いでいました。基本的には全身のお浄めを意識して、頭部、頸部、胸部、腹部、下半身と全身的にご浄霊をさせていただきましたが、重点的にはやはり患部で、特に左腕を開いてもらって、左の脇の下から左乳房の脇を徹底してご浄霊させていただきました。その間に定期的に病院に通っていましたが、何の変化もありませんでした。

 一ヶ月経っても二か月たっても、何の変化もなく時間だけが無情に過ぎていきました。そして、明日、最終的に手術の日程を決めるという前日に、私は、センターに来たご主人にある本を渡しました。恐らく、明日病院に行く前に、今まで多くの方々からご浄霊をいただいたことへの感謝と、ご守護のお願いに来られたのだと思います。明日の今日という切羽詰まった時に、こんな本を渡して迷わすようなことをして申し訳ないですが、手術をするかどうか検討してみてくださいと言いました。

 その晩、どのような夫婦の会話があったのかは知りませんが、後日談としてご主人は、貸してもらった本を一気に読んだと言っていました。そして、病院に行った時のレントゲンで、今までは何の変化もなかったのが、がん細胞が小さくなっているということに、本人も主治医も気づきました。そこで、いろいろなやり取りがあったようですが、本人は全摘手術を覚悟してきているので、予定通りに手術をお願いしますとその意思を伝えたようです。ところが、主治医が「本当にそれでいいですか。」といって、何度も確認して、「午後にもう一度話し合いましょう。それまでに、姪御さん(その病院で看護師をしていた)とも話し合ってみてください。」と言って、午後からの話し合いで最終的には経過観察をすることになりました。私が居たころは、その後癌が進展することもなく、経過観察が続いていました。

 その後の聖地参拝の時に、ある女性青年が「先生ありがとうございました。○○さんのおっぱいは本当にきれいで、あのおっぱいが無くなったら残念でした。先生のお蔭です。」というようなことを言ってきました。○○さんは、私より少し年配の方でしたが、家族やネットワークの方だけでなく、いろんな方が関心を持って見守っていたのだなと思いました。

 このようにいろいろなご守護を見せられて、前述の慰霊祭には、ネットワークの掌握にのらない方々が参拝されて、参拝記録を更新することができたのだと思います。やはり聖地でも、県本部でも、布教所でも、参拝者が少なくて閑散としているよりも、ギュウギュウ詰めくらいの状態で、熱気があふれている方が発展していくと思います。その意味では、東方之光(MOA)のやり方は間違っていたのかどうかは分かりませんが、少しズレていたのではないかと思っています。

 当時としては、本部や地区の方針に反していたかも知れませんが、現場の率直な声を聞いて、みんなで取り組んだ結果、過去を上回る参拝者が許されたと思っています。その年の聖地参拝も、過去最高を更新しました。

 教団としても、時流を捉えてそしてご神意を尋ねて方針を打ち出していると思っていますが、発展が許されない方針は、そもそもご神意に叶っていないということに気づくべきではないでしょうか。

 あの頃の私は、とても充実していたように思います。そして私は、つくづく現場人間だったと思います。一人の人に寄り添い、その人が救われ、その喜びが拡大して、次の救いへとつながっていくことが、何より大切だと思います。

 同時に、奇蹟が許されていく過程の中心に、ご浄霊という大メシヤ様の救いの業が存在していると信じています。 

            by Mr.Right

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