世界救世教奇跡集

世界救世教奇跡集 世界救世教奇跡集
序文      
奇跡とは何ぞや 霊主体従  霊と体   
この奇跡をどう見る
炭坑にての奇蹟の数々
霊光自由無碍 
水中での感電死より甦る
雷火恐怖症
三十年間の雷恐怖症から救わる
 
奇跡以上の奇跡
水中での死より甦る
スポーツの奇跡
御浄霊により中学校対抗バレー
ボールリーグ戦に優勝す
   
病気に就いての奇蹟      
超奇跡
ああ奇蹟なり! * 六日間の
無排尿を救われ失くなった
生殖器を再び戴いて
     
       
       
       
       
       
       
       
       
世界救世教奇跡集

【お陰話】B・C・Gの猛毒を浄化して戴く

一人でもこの尊いお救いと薬の恐ろしさを世の人々にお伝えしたいと努力しております。今更ながら医学の間違いを体験をもって多くの人々にお知らせ致します。
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神様も御手数が掛る (世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)

現代人は残らずといいたい程、宗教特に新宗教を蔑視し、信じなければならない程の事実を見せられても、疑いが先に立って中々信じようとしないのは困ったものである。この原因こそ医学迷信のコチコチになり切っている為であるのは言う迄もない。
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超奇蹟 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

この御蔭話の奇蹟は奇蹟以上の奇蹟であって、恐らくこれ程の超奇蹟は人類史上空前であり、医学関係者は固より、普通人が読んでも只唖然として言葉も出ないであろう。これこそ世界的大問題として取上げてもいいと思うのである。私はこれを読みつつ驚きと共に涙が溢れて来てどうする事もならなかった。
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病気に就いての奇蹟 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

今迄のは病気以外の奇蹟であるが、今度は病気に就いての奇蹟であるが、その前に 断っておきたい事は、勿論全部が本人の手記その儘であるから、文中冗漫な点や感謝の言葉など、どれも同じようで五月蝿いかも知れないが、些かでも直さない方がいいと思うからそ...
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スポーツの奇蹟 (世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)

私は知らず識らずのうちに手をかざしていた。今私の目の前でサーブをしようとしているその生徒を目指して……。やがてその生徒は構えた。身構えると同時にものすごい第一球が飛んで行った。セーフ。敵はただ見過した。第二球。
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奇蹟以上の奇蹟 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日) ※水中の感電死より蘇る

この報告は信者以外如何なる人でも、到底信ずる事は出来まい程の一大奇蹟であ る。これを端的にいえば、神力の如何に絶対的であるかという事で、恐らくこの事実に対し世界中の学者が残らず額を集めても、片鱗だも分り得ないと共に、彼のキリストの奇蹟もこれに比べたなら御気の毒だが大したものとは思えないのである。
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雷火恐怖症 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

左の御蔭話の人は、雷恐怖症であるのは勿論だが、この原因は何かというと、この人は前の世雷火で死んだその時の恐怖が霊に染みついていて、霊界生活が短かかったのでまだ除り切れないまま生まれて来たのである。
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霊光自由無碍 (世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)

御守の光が印画されていたのであるから、驚くべき現象である。次にこのレントゲン撮影が完全に出来ないと職業にありつけない為、神様に御願いした処、今度はチャンと写ったので、希望通りになったということである。これをみても神様の自由無碍な御守護の力の偉大さは言葉にも表わせない
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この奇蹟をどう見る (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)御蔭話「炭鉱にての奇蹟の数々」

これは炭坑内における危機一髪という一瞬間に、被害を免れたという幾つもの奇蹟であるから、その損害を免れた利益は頗る大きなものであろう。従って全国の炭坑悉くに、一個所につき何人かの本教信者が居るとしたら、恐らく現在蒙っている被害高は何分の一に減るであろうことは断言される
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霊と体 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

一切万有は霊主体従が原則であるとしたら、本著にある幾多の奇蹟もこの理が分れば敢えて不思議はないのである。例えば危機に際し間髪を容れず難を免れたり、高所から墜ちても疵(キズ)一つ受けず助かったり、博士や大病院から見放された重難症患者でも、難なく治るという事実である。
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霊主体従 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

現代科学といえば勿論唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触る る形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、凡ゆる物象の表面だけが或程度判ったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要な或物に気附かなかったのである。この或物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名附けて霊という。この霊なるものこそ凡ゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、何程科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛行的でしかない
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奇蹟とは何ぞや (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

我救世教に至っては、奇蹟の多い事は恐らく世界に例があるまい。全く奇蹟の宗教といってよかろう。そうして社会一般の通念からいえば、信仰心が強ければ強い程、奇蹟的現当利益に富むとされているが、その点本教は大いに異っており、寧ろ反対である。というのは最初から神を否定し、何程疑っても必ず奇蹟が起るのである。
大経綸

「世界救世教奇蹟集」 序文 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

この著は科学に対する原子爆弾であり、現代人に対する啓蒙書であり、天国の福音でもある。今その理論を説くと共に、裏附けとして我救世教に於ける数多くの奇蹟中から、百二十例を選んで載せてあり、これを読むとしたら余りの超現実的なものばかりで、直ちに信ずる事は出来ないであろう。何となれば古往今来これ程素晴しい奇蹟が多数ある例はなかったからである。