科学が迷信を作る (自観叢書第十二篇 自観説話集 昭和25年1月30日)

 相変らずジャーナリストは、馬鹿の一つ覚えのように新宗教は残らず迷信邪教と決めている。曰く、終戦後の人心混乱に乗じ迷信邪教が横行して、人心を惑わすとは怪しからんと言うだけで、何の為にそういう現象が表われたかという事などには言及せず、何等の検討を加えようともしない。新宗教は十ぱ一からげに邪教と見做(みな)し、世間の噂や自己判断のみで頭から断定するというのであるから、彼等の物の考え方の単純さには呆れざるを得ないのである。故に吾等の責務の一面として彼等に対しても、一大啓蒙の必要を痛感するのである。

 しかしながら右に対し、吾々は彼等の態度を一概に否定をしようとは思わない。何となれば、彼等の根本観念が唯物主観を通じて観るのであるからである。彼等は勿論眼に見えざる悉くは迷信と断ずるのであるが、吾等と雖も彼等と同じ立場にあれば勿論そういうであろう。しかしながら仮に不可視的存在を否定するとしたら、世の中は一体どうなるであろう。唯物主観の結果大変な事になろう。それは人間間の情愛も恋愛も親子兄弟の関係も、利害と打算で決めて了うからで、石の牢獄の如き冷い社会となるであろう。そのような社会はマサカ彼等と雖も希望する筈はあるまい。としたら彼等の考え方は中途半端で、徹底味がない事になる。

 次に実際面を客観してみるが、それは案外にも高等教育を受けたインテリ層に案外迷信の多い事実である。以前世界各国の迷信の種類を調査した表を見た事があるが、彼の最も科学教育の盛んとされているドイツが、最も迷信の数が多いという事であった。この様に迷信は科学と正比例しているという事に注目さるべきである。しからば之等は何に原因するかというと、吾等の見解によれば斯うである。長い間学校で唯物教育を叩き込まれたので、唯物教育とは理屈が基本であるから、一度学校を出て社会人となるや、現実は余りにも理屈に合わない事ばかりで、大抵は懐疑に陥る。勿論理屈通りやったもの程成績が悪いからである。そこで賢い者は考える。即ち新しい社会学という学問を学ぼうとするが、そういう学校はないから独学で始める。処が早くて数年、遅いのは数十年かかって卒業するのである。いわば第二の学問である。折角習い覚えた第一学問とは凡(およ)そ反対であるが、実際的であり、確実性があるから処世に応用すると今度はうまくゆく。優れた者は社会学博士となる。そういう人は酸(す)いも甘いも噛み分けた苦労人となる。しかしこの苦労人博士になる頃は老年期に入るので、多くは今一歩という処で大方は平凡に畢(おわ)って了うのである。しかし中には傑出した大博士もある。今の吉田首相などはそれで、彼の苦労人的、人を食ったような態度も、老練な政治的手腕もその表われである。

 以上によってみても迷信の原因は判ったであろう。一言にしていえば、絶対信じた学理を実行して失敗し懐疑に陥る。その時多くは迷信邪教に走り易いが、本当に解決してくれる宗教はまずないと言ってよかろう。してみれば実際と遊離した学理に罪がある訳である。この理によって迷信を作る者は、実は現代科学教育の一面といっても否とは言えまい。

 最後に今一つ言う事がある。それは彼等の言う如き、今日迷信邪教の氾濫も確かに事実であるのは吾等も認めるが、全部が全部そう決めてかかる処に誤りがある。多くの迷信の中にも幾つかは必ず迷信でないものもあるに違いない。とすれば迷信ならざるものを迷信と断ずる事も、一種の迷信である。この点を吾等は警告したいのである。故にジャーナリスト諸君に要望したいのは、迷信邪教に対しては大いに筆誅(ひっちゅう)するを可とするが、迷信邪教ならざるものを迷信邪教と誤認する事の危険を言いたいのである。それは文化の進歩の阻害者となるからである。

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