愚かなる者よ!汝の名は悪人なり  (光7号昭和24年4月30日)

 悪人とは何ぞや、言う迄もなく善人の反対であって自己の利益の為他人を犠牲にして平気でいるばかりか。中には一種の興味の為かとも思える奴さえある、ここでまず彼等の心理を解剖してみるが、よく悪人は太く短くという事を口にするが、悪事千里のたとえ通り長い期間は隠し了せないという意味であろう、したがって彼等は初めから承知してかかるので若し知れたら百年目という覚悟である、処が単に悪事というと市井の無頼漢か強窃盗や殺人等のように想われ勝ちだがそうばかりではない、社会的地位のあるものが実に危険至極と思われるような不正をする、終戦後新聞雑誌を賑わしているものに物質の隠匿横流し、脱税、贈収賄等の忌わしい犯罪があまりにも多い事実である、この人がと思うような立派な名士等が小菅行となるなどは不思議と思う位である、しからば何故以上のような不正を行うかというと人の目を誤魔化し、巧妙にやれば知れずに済むという考えからである事は勿論である、処が悪い事はどうしても知れずにはいない、之は見えざる霊界に於る神々が照覧ましましているからで、常に吾々が口を酸っぱくして言う処の「無信仰者は危険人物である」とはこの事で、相当偉い人でもこの肝腎の事が認識出来ないのである。

 処が一度不正が暴露し犯罪者となった以上社会的信用は失墜し、それを挽回する迄には相当長年月を要する事は勿論で、中には運悪く一生埋れ木となる人さえ往々見受けるのである、考えてもみるがいい、一寸した不正利得の為に及ぼす損失たるや、利得した何倍何十倍に上るか知れないのである。

 明治時代有名なピストル強盗清水定吉なるものが捕えられた時、彼は熟々つくずく述懐したそうである、その言葉によれば「強盗位割の悪い商売はない、自分が今迄盗んだ金を日割にすると一日四十五銭にしか当らない」との事であるからいくら物価の安かった明治時代でも全く割に合はなかったに違いない。

 以上の如く信仰上から考えても打算的からいっても割に合はないばかりか、罪悪が暴露するまでの期間常に戦々兢々として枕を高くして寝る事は出来ないのであるから悪事不正をやる人間位愚かな者はない訳である、故に標題の如く「愚かなるものよ!汝の名は悪人なり」と言うのである。

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