無信仰と有信仰(光2号 昭和24年3月20日)

 この論文を書くに当って断わっておきたい事は、無信仰と有信仰というこの有信仰とは無論本教を指すのであって、他の宗教や既成宗教をいうのではない、そうして昔の事はイザ知らず、現在のこの娑婆世界にあって生活している人間を熟々つくづく客観してみるに、キリストの曰った「哀れなる仔羊」という言葉がよく当嵌っていると思う。

 まず考えてもみるがいい、真に何等の不安なく安心して日々を送っているものは恐らく何人あるであろうか、その不安の中第一に考えられるのは言う迄もなく人間の病気であろう、如何なる人間と雖も何時何どき病気に犯されるか判らない、一時間後に風邪を引くかも判らない、風邪を引けば肺炎になるかも判らない、或は結核の初期であるかも判らない、今晩あたり盲腸炎が発病し七転八倒の激痛で苦しむかも判らない、明日あたり腸チフスになるか又は原因不明の病気に罹るかも判らない、子供のある人は生命とりという恐ろしい疫痢、ジフテリヤ、脳膜炎等の重症に罹って二、三日で彼世へゆくかも知れない、又年寄りは年よりで、今にも脳充血から中風となり、半身不随のまま何年も床から離れられないような悲惨な運命に陥るかも分らない、若しか家族の中誰かが伝染病に罹って、入院隔離されるかも分らない、そればかりではない、今日のように医療代が高くては、治療費や入院料がどの位かかるか分らない、それも短期間で治ればいいが、もしか長期にでもわたったら入院料の為に長年辛苦して貯めた貯金が零となり、仮令たとえ病は治っても会社はくびになり、路頭に迷うようになるかも知れない、しかしそれでも生命さえ取止めれば又稼ぐすべもあるが運悪く不具者になるか死んででも了ったら一体どういう事になろう、仮に主人であった場合遺族はどうして暮しを立てるだろう、又自分としても計画や事業半ばにして終りとなるし、未だ男盛りの年齢であるのにこの世を去るとは実に残念だ、妻子と今愛着の絆を断たれるのはどうしても我慢が出来ないというような事態が来ないと誰か言い得よう、之等種々の事を考える時、病気に対する恐怖感は絶えず鉛のように重くブラ下っているのは、何人と雖も例外はあるまい。

 以上述べたような恐ろしい人生である以上この不安から解放されないとしたら、釈尊の唱破した如く「この娑婆は火宅であり、人間は生病老死の四苦から免れる事は出来ないという諦めで我慢するより道はない、それが悟りである」と言うのである。

 以上述べた如くであるからこの病気の不安から絶対解放される宗教が現われたとしたらこんな大きな福音はあるまい、しかし初めてこの事を聞いた人は「そんな馬鹿な事がこの世の中にあって堪るものか、君の頭はどうかしている」といい、まず狂人の一歩手前位にしか思うまい、処がどうだ、右の如き宗教が確かに表われたのである、読者諸君はまず一応も二応も疑る処か否定するかも知れない、がもしそれが真実であったと知ったらどうなさる、大変どころの騒ぎではない、世界的一大センセーションを起さずにはおられまい、其中で運の好い人は、まあ兎も角一度研究してみようという事になろうし、反対にそんな話は迷信以外の何物でもないと鼻の先で笑う人もあろうが、こういう人はまず華厳の滝か三原山へ飛込む人のお仲間で、まことに不幸な人というべきである。

 こういう事をいうと、余りに自惚れ過ぎるというかも知れないが、ここでまず本教の信仰と病気について簡単に述べてみよう、本教によって信仰の実態を把握した限りの人々は、病気の心配は皆無となる事である、否病患の根本が明かになった以上、恐れる処か反って、それを喜ぶ位である。何となれば病気なるものは健康増進の為の自然生理作用であって神の一大恩恵であるからである、勿論凡ゆる病患が発生するや、神霊放射能によっていとも簡単に治癒されるからでもある。

 以上は病気のみについて述べたのであるが、未だ病気以外にも不幸は因は多々ある、譬えていえば現代生活に於ては交通機関とは切っても切れない関係にあるし、人によっては生活の大部分を占めるものさえある、之が為その不安も災害もなかなか軽視出来ないものがある事は皆よく知っている、其他工場に於る機械の受難、火災の災害、盗賊の被害等々は固より、稀ではあるが地震洪水等の災害も由々しきものがある、かように病患を初め諸々の災害が何時如何なる時に襲いかかるかも知れない現代生活を考える時、実に一時と雖も安心出来得ないのである、之に対し官民共に凡ゆる防護施設を採っている、健康保険、災害保険、失業保険等々はじめ貯金制度、諸種の保護事業等の施設もあるにはあるが、之等有形的の手段は或限度以上の安心は出来得ないのである、どうしても無形の保険即ち神様の保険でなくては絶対安心を得られるものではない、しかし現代人は無形の力とか、神様の保険だとかいってもなかなか受入れようとはしないのである、といって有形的方法だけでは真の安心は得られないというジレンマに陥って、相変らず不安な日を送っているのが実状であるから、哀れなる小羊に過ぎないのである。

 故に吾々信仰者の側から見ると、無信仰者の何等拠り所のない浮草のような生活裡に戦々兢々たる有様は実際見てはいられないのである、恰度大海に小舟を操っているものに、大汽船に乗れよといっても彼等は自己の船のみを見詰め、大きな船体あるを知らないようなもので、之等を見かねる吾等は折角信仰を奨めても否定の闇の中から抜け出る事が出来ない有様である。

 かような素晴しい救の力は、人類史上未だってない事であるから、容易に信じ難いのは無理もない、しかしこの大いなる福音が現われたという事そのものを考えても、病貧争絶無の世界である地上天国出現の間近に迫った事は一点の疑う余地のない事を知るべきである。

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