御教え *日本画/運命(御教え集15号  昭和27年10月6日)

この間、「院展」と「青龍展」に行ってみて、あんまりひどいので書かずに居いられないから、書いて『栄光』に出して日本画の主なる先生達に送るつもりです。何しろ日本画というものは亡びてしまうのです。それを書いてみたのです。言いたい事を言ったわけです。

御論文〔今や亡びんとする日本画〕

運命は自由に作られる

これはちょっと面白い論文です。

御論文〔運命は自由に作られる〕

 今読んだ通り、すべての苦しみは浄化です。それで霊の曇りがれるのです。そこで今までの宗教での難行苦行というのが、その方法なのです。というのは、普通世間で苦しむのは、やむを得ずなるのです。苦しみの方がぶつかって来るのです。ところが難行苦行というのは、自分で一生懸命苦しむのです。それでも魂が磨けるのです。それでバラモン教のほうは苦しんで悟りが開けると言っているのですが、苦しんで悟りが開けるという事は、曇りが無くなると悟りが開けるのです。つまり曇りが無いから、物事が良く分かるのです。すると悟りが開けるのです。悟りが開けるという事は、物事が分かる事です。つまり真理が分かるわけです。けれども真理にも色々あるのです。やっぱり上中下あります。だから、みんなが真理と思っているところが、ごく下の真理というのが多いです。それで前よりも魂が浄まるのです。迷いが少なくなって来る、判断力が出て来る。しかし、迷いというものは、全然無くなるという事はないのです。どんな偉い人でも――私でもあります。ただ迷いが無くなるのが早いのと遅いのとのちがいです。私などは、迷っても半日位です。私は、物事をみるとすぐ結論が分かるのです。ですから、こうして庭や建築とか色々な事をみてもすぐパッと分かるのです。首をひねる様な事はありません。もしその時パッと出ないと、考えないで放ったらかしておくのです。それはやはり時があって、何かの時にパッと分かるのです。というのは順序があって、神様の方で、早過ぎると知らせないのです。それで時期が来ると分かるわけです。ですから迷わないで分かるわけです。ところが今の人は霊が曇ってますから、どんな偉い人でも始終迷いに迷い、考えに考えているのです。で、あんまり考えたりするのに、ろくな智慧は出ないのです。だからやり損なったり、自分で求めて失敗を作っているのです。特に政治家方面などは……よく新聞なんかに出てますが、実にあまりに智慧が無さ過ぎる。という事をよく感じますが、それは霊が曇っているからです。そこで人間は、その曇りを出来るだけ除ると、健康になるばかりでなくやっぱり頭が良くなります。そこで頭を良くするのに、つまり曇りを除るのに難行苦行をしなくても除れるというのは、恐らくメシヤ教だけだろうと思います。これはつまり天国的宗教、昼間の宗教だから、明るいから早く曇りが除れ、魂が磨けるから智慧証覚が得られるというわけです。

 すなわち病気を治す場合に、疑っても何でも治るという事は、つまり難行苦行という事は要らないというのと、理屈は一つです。他力です。他動的です。そこに素晴らしい値打ちがあるわけです。そんなわけだから運というものは、霊の曇りと平均するものです。つまり曇りのあるだけは、どうしても苦しみはぶつかって来るのですから、一切は相応の理と言って、すべて何でも食い違いはないのです。人間には、食い違いがある様に見えるのは、つまり人間が上っ面だけを見て判断するからです。仮に一家にどうしても信仰に入らない人があって、その人が反対したりするが、そうすると反対された人の方は、始終やきもきしてますが、そのやきもきする方に曇りがある。その人に曇りが無くなって魂が浄まると、他の人が悩み苦しめる事は出来なくなる。するとその人は信仰に入る事になる。あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつの為にとんでもない事になった、あいつはとんでもない損をさせた。またいくら言っても入らないとか、そういうのはやっぱり御自分を見なければいけない。それはそれだけの曇りがこっちにあるからなのです。それによってこっちの曇りを除ってくれるのです。ですから自分を酷い目に遭わせたり苦しめたりするという人は、自分の曇りを除ってくれているわけです。浄化作用の仕事をやってくれているわけです。そこまで来ると、感謝してもよい事になって来るのです。この間裁判所で、公判が済んだ時に被告の感想を言わせたのですが、外の人は今まで間違った調べをして、検事や検察官はけしからんと、今までの言い足りない不満足を言ってましたが、私は今まで検察官や何かのお蔭で、私は大変磨かれた、その為に教団も堅実になった、大いに御苦労であった、それを感謝する。という事を言ったのです。で、何も迎合したり、そんな様な意味ではないのです。今言う様に、大乗的に考えればそうなるのですから、大いに感謝してよいのです。だから、考え方というのはそこの点です。そういう考え方が信仰の価値なのです。価値ではない、それが芯です。本当なのです。だからこっちに反対する奴は、私も一時はしゃくさわったが、考えてみるとその為に反って結果が良かった、という様に言いましたが、それが本当なのです。ですから、思う様に行かないという事はまだ自分に霊的に資格がないのです。で、霊が浄って魂が浄まれば思う様にいくのです。そういう風に出来ているのです。思う様にいかないという事は、それはまだ自分に曇りがあるのです。その曇りを苦しんで除らないで、愉快に除るというのがメシヤ教の真髄です。それには人を助けるのです。そうすると人の感謝によってその人は始終光を受けますから、それでこっちの魂が浄まるのです。つまり難行苦行の代わりに人を喜ばせ、人を助ける、それによって同じ結果を得られるというわけです。そこで人を助けるには、やっぱり話や説明や何かが上手うまく出来なければならないから、その為に御神書を読む。また御神書によって、色んな真理を知りますから魂も浄まります。それと共に人を救う力もそれだけ出ます。そうして人を救い、喜ばせながら、自分も向上するという事になるのです。大本教のお筆先に面白い事が言ってあります。うしとら金神こんじんは神代の時に人から嫌われて押込められたのです。それで、「今に返報へんぽう返しを致すぞよ」――仇討かたきうちです。それだけでは神様も人間みたいですが、けれども「艮の金神は喜ばして返報返しを致すぞよ」そういうのがある。喜ばして返報返しをするというのが非常に面白いです。仇討と言っても、忠臣蔵の様に上野介こうずけのすけの首を取るというのではないのです。先方を喜ばすというのですから逆です。これが本当です。ですから私は大祭の余興の時に、講談の貞丈ていじょうに“忠臣蔵をやってはいかん”と条件をつけたのです。これは喜ばせて返報返しをするのとは逆です。私はそういうのは嫌いです。仇討という思想は非常に悪いのです。これを日本から絶対に除かなければいけないのです。けれども日本人はそれに非常に憧れるのです。曽我兄弟とか……と。その仇討思想を除らなければ、世界は平和にはならないのです。個人としても争いが絶えないわけです。

 支那の言葉に「怨に報ゆるに徳を以てする」というのは非常に良いです。それから蒋介石しょうかいせきが終戦後日本に非常に好意を持っているのです。日本に対しても良くしなければいけないというので、蒋介石は今もって日本から賠償を取ろうとは思っていないのです。その為に今も台湾だけでも地位を保っていられるというわけでしよう。そんな様な具合で、ただ信者は浄化作用というと、病気だけに限る様に思うきらい﹅﹅﹅がありますから、それで話したのです。あらゆる苦しみというのは全部自分にあるという事を知れば良いのです。

時間が無いから短い論文を読ませます。

御論文〔爆弾を抱いている現代人〕

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