【体験談Mr.Right】№21 突然「三時!」の声

今回の不思議な出来事は、2010年(平成22年)の地上天国祭の6月15日の未明のことでした。突然「三時!」という声が聞こえました。これは夢というよりも誰か男性の声が聞こえたというだけのことですが、耳元で聞こえたというよりも、頭の中に響いたと言った方がより正確かも知れません。

 その時点では、夢は見ていなかったと思います。驚いて携帯電話で時間を確認すると、正に3:00丁度でした。私は、目覚ましとして携帯電話を枕元に置いていましたので、いつも携帯電話で時間を確認することを習慣にしていました。三時丁度に、誰かの声が聞こえて、目が覚めたこと自体が、不思議でなりませんでした。誰かに起こされたに違いないと思いました。

 この突然の声は、何のことだろうかと考えて気づいたことは、その頃は警備会社の取締役に復帰していた私は、地上天国祭の特別警戒の指揮を執る立場でしたので、その重要性は理解していたつもりです。しかし一方で「天啓の日」だということへの意識が、希薄だったように思いました。

 思えば昭和6年(1931年)6月15日、前夜から千葉県鋸山の日本寺に滞在していた明主様ご一行は、朝三時に起床し、提灯を手にして山頂に登り、登り来る朝日に向かって祝詞を奏上して「霊界の夜昼転換の啓示」を受けた大切な「天啓の日」ではなかったかという思いに至りました。私は、教団の原点ともいうべき大事な御神業のことを、余りにも意識していなかったと反省をしました。もしかしたらその時も、随行者の中の男性の誰かが「三時!」という声を掛けていたかも知れません。

 その日は正に、天啓から80回目の節目の日だったのです。これは80周年とは違います。数え年と満年齢の違いですが、今は年齢を言う時にはほとんどが満年齢で言っていますが、それは時流ですから仕方ないとしても、母親のお腹の中で生きていた十月十日を無視してはいけないと思います。生まれてはいないものの、その命は確かにこの現世に生きている訳です。昔は、生まれた時に一歳と数えていました。それが数え年です。従って、満年齢と数え年とは一歳の差があったのです。十月十日を組み合わせれば、「朝」という漢字になります。意味深ですね。(実際には、十日十月と書きますが)

 余談ですが、一般的には、太陽が昇って明るくなった時を「朝」というのだろうと思いますが、あの世で暮らしていた魂が、受胎してから十月十日という暗闇の期間を経て、おぎゃーと生まれた瞬間を捉えて、「朝」という漢字がつくられたのかも知れません。いずれにしても明るくなった時を捉えて、「朝」と言ったに違いありません。

 ちなみに伊勢神宮の奥宮とも言われている「朝熊山」は「あさまやま」と呼びますが、あの地域で旭日が一番初めに当たる山という意味のようです。普通「朝」を「あさ」と言いますが、アイヌ語かどうかはよく知りませんが、東北や北海道では、「朝」のことを「あさま」と言っていました。私の子供の頃でも、朝のことを「あさま」と言っていました。しかも朝熊山は標高が555mです。明主様の御教えでは5は火を意味し、火は日を意味しますから、正に明るくなった誕生の瞬間を名付けた象徴的な山といってもいいでしょう。

 ところで、三時過ぎに外へ出ても真っ暗ですから、私は教団発行の「東方之光」を読み返して、当時のことを勉強し直してから、4時過ぎに玄関を開けました。ところが、空は厚い雲に覆われていました。これでは記念すべき日の旭日は拝むことは出来ないと思いながらも、これにも意味があるに違いないと思って、旭日が拝める海岸へと向かいました。

 海岸に到着してほどなく、水平線と厚い雲に覆われた隙間に、丁度太陽一個分の隙間があり、そこに80年前に霊界における夜昼転換の啓示を知らしめた太陽が昇ってきました。それは、今まで拝したことのない旭日の神々しさでした。水平線と雲の隙間に旭日の光が左右にスーッと伸びて、海面には太陽の光が反射して縦に伸びて、上の方は雲に覆われていましたので光は遮られて、長くは伸びていませんが、十字に結ばれたような旭日の光景を拝することができました。当然のこと写真に納めましたが、この日の旭日の写真を見た人は、きっと初めて見るような旭日の光景に感動すると思います。

 普段は、神仙郷の完成を祝した地上天国祭として、明主様の御生誕祭と共に大勢の信者さんが参拝する祭典日ですが、この祝賀の祭典の原点は、昭和6年6月15日の鋸山における夜昼転換の啓示にあることを失念して、天啓に対しての意識が薄かった私に教えてくれた不思議な出来事だと思っています。その意味では、地上天国祭にご参拝される皆さんは、「原点は、天啓の日にあり」という意識を、しっかりともってご参拝されたらよろしいかと思います。(多くの方々は、その意識を持っておられるかも知れませんが・・・)

 また、別な角度から確認しておきたいことは、天啓の日に鋸山でご参拝された明主様は大本教の大森支部長で、一緒に参拝された信者さんも大本教の大森支部の信者さんだったと言うことです。言われてみれば、そうだったと思うかも知れませんが、意外とこの事実も軽視されているのではないかと思っています。つまり、昭和6年6月15日に天啓を受けられてから、人類救済・地上天国建設という主神からの大使命を遂行するための、「救いの機関」づくりの本格的なご準備をされたと思えば、私たちは、天啓の日の意義の重要性を肝に銘じておくことが大切ではないかと思う次第です。

 更に、今年は昭和100年ということのようですが、明主様におかれましては昭和元年に神憑りになり、日本の創成期とご自身の使命、そして未来のことについても神託を受けられました。その意味では、メシヤとしての使命を果たすためにお生まれになった明主様の人生、ご事蹟を深く理解した上で、ご神業に奉仕させていただきたいものです。

今もって「三時!」と言った声の主は分かりませんが、5年後には、100回目の「天啓の日」の節目を迎えます。その翌年には、100周年という節目を迎えます。その日も、旭日を拝みに海岸に行くつもりですが、襟を正して迎えたいものです。

 次回もお楽しみに!

by Mr.Right

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