再びベルグソンに就て(栄光113号 昭和26年7月18日)

 私は以前、仏蘭西フランスの有名な近代哲学者である、のアンリ・ベルグソンに就てかいた事があるが今度再びかいてみたい心が起ったので筆をとったのである。というのは、よく私にむかって、色々な事をいたり、又私の方から話す場合、其意味が簡単に判る人はまことに少ないのであって、事柄としては実に簡単で判りそうなものだが、仲々判らない。く人は相当の教養がありながうなずけないので、私は色々な例を挙げて、諄々くどくどしく並べてやっと判るのである。其都度思い出すのは、ベルグソンの哲学である。

 何故、簡単な事がそれ程判らないかを考えてみると、こういう理由がある。それはベルグソンの所謂刹那いわゆるせつなの吾にならないからで、勿論それを意識しないからでもあろう。彼の説によれば人間は誰でも物心がつき始めると、色々な事を聞いたり、伝説や既成学問を詰め込まれたりするので、一人前になる迄には、それが棒のようなものになって心の中に出来てしまう。だから棒以外の説を聞いても、その棒が邪魔をして想念の中へ其まま入らない、だから想念の中が空ッポなら、苦もなく入るから直ぐ判る訳で、よく白紙になれなどとわれるが全く其通りである。そうは言うものの棒などに気がつく者は殆んどないらしい、だから此文を読んだ人は、今からでも刹那の吾となる事である。刹那の吾とは、物を見たり聞いたりした其瞬間、咄嗟とっさの感じを言うのである。全く棒が邪魔をする間隙のない、恰度ちょうど子供と同じようにする、よく子供が大人の言葉をきき、返えす言葉に感心させられる事がよくあるが、全く棒の邪魔がないからである。

 此事を彼は又、直観の哲学とも曰った。此意味もゆがめないですぐに物を見よ、それが正しい観方であるという訳で、刹那の吾に附随したものである。それから又彼の哲学には、万物流転という言葉がある。之も仲々面白いと思う。それは万有一切は一瞬の停滞もなく動いていると言う意味で、例えば去年と今年とは一切が何処どこちがっている。世界も社会も同様であり、自分自身の想念も環境もそうである。否昨日の自分とも、五分前の自分とも必ず異っている処がある。としたら昔からいう一寸先は闇という言葉もそれである。此様に何でもんでも一秒の停止もなく流動してやまないのである。

 従って、此理を人間に当嵌あてはめてみる時、斯ういう事になろう。何かの事にブツかった時、去年の観方も考え方も、今のそれと異っていなければならない。大きく見れば終戦前と終戦後とは丸きり異っているではないか、僅かの間に驚異的である。処が多くの人は、何百年前のり方や、何十年前の考え方が、先祖代々から棒のように続いているから、適確に現在を把握する事が出来ない。之を称して封建とか、ふるい頭とか言うのであろう。つまり一切が流転るてんしているのに、御自分だけは泥水のように停滞しているからで、斯ういう人こそ世の中から置き去りを喰ったり、不幸な運命となるのである。

 既成宗教が振わないというのも、右の理を考えてみればよく判る。此理によって万物流転と少しもズレル事なく、千変万化する事が観世音のお働きでもある。観世音の別の御名である応身彌勒おうしんみろくとはその意味で、応身とは身を以て応ずる、即ち外界の事物に対し、自由無碍むげに応ずる事である。無碍光如来むげこうにょらいの御名も其意味に外ならない。判り易く言えば老人に対しては、老人に合うやうな話をし、婦女子には物柔かく、智識人には科学的に、一般人には常識的平凡にするというように、如何なる人にも話す場合、先方が理解し、興味が湧き、快く聞くというようにすればいいのである。此方針で信仰を勧めるとしたら、案外うまく行くものである。

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