正直者が馬鹿をみるとは嘘だ (地上天国3号 昭和24年4月20日)

 この標題の如き言葉は大分前から聞くのであるが、この言葉を深く考える時、甚だ面白くない響きを社会人心に与えやしないかと思う。しかし事実その通りであるなら致し方ないとしても、私の経験上この言葉のような事実は絶対にない事を保証する。之に関し以下論じてみよう。

 世の中を熟々つくづくみる時、人事百般に渉って二種類の見方がある。即ち一は一時的見方であり、一は永遠的見方である。処が一般人は一時的の結果によって善悪の判断を下したがる。譬えば一時的巧く人を騙したり、物を誤魔化したりする不正直者の成功をみて眩惑され「正直者は馬鹿をみる」と決めるのであるが、之等を今少し長い眼で見なくてはならない。そうすると必ずボロを出し、恥を掻き、破たん者となる事は決定的と言っても可い位確実である。これに引換え正直者は仮令たとえ一時は誤解を受け損をしたり不利な立場に置かれても、時たち日を経るに従い、必ずその真相が明かになるもので、之亦決定的といっても可い位である。之について私の体験を述べてみよう。

 まず私の体験から書いてみるが、私というものは、若い頃から、自分で言って可笑しいが実に正直である。どうしても嘘がつけない。若い頃「君のような正直者は成功は覚束ないから、心を入れ替え出来るだけ巧く嘘をつかなければ世渡りも成功も難しい」と、よく言われたものである。私も成程と思って一時は一生懸命嘘をついてみるがどうもいけない。苦しくて堪らない。人生が暗くなり不愉快な日ばかり送るのである。そんな訳だから勿論結果のいい筈がない。其頃私は商人であったから、猶更駈引や嘘がいい筈であるが、どうも良くないので、遂に意を決して私本来の性格である正直主義で通してみる事に決意した。処が面白い事にはそれから予想外に結果が良く、第一業界の信用を増し、トントン拍子に成功し、一時は相当の資産を作ったのである。その為調子づいてあんまり手を伸ばし過ぎた処へ経済界のパニックに遇い、再び起つ能わざる迄に転落した結果、宗教生活に入ったのである。

 けれども一旦決意した正直主義は飽迄通して今も変らない。勿論結果は良い。尤も長い間には誤解を受けたり非難を浴びたり、迫害を蒙ったり、波瀾重畳茨の道を越えては来たが信用は些かも落ちなかった事は、正直の御蔭であると今も痛切に思っている。この様な訳で現代人はどうも物の観方が一時的で一時的結果に幻惑されがちである。故に人間は何事を観察する場合でも、永遠的の眼で観なければならないのである。

 この事は凡ゆる事に当はまる。譬えば政治家にしても、一時的に政権を獲得しようとして無理をする。恰度ちょうど熟柿の落ちるのを待ち切れないで、青い中にモギ取り渋くて失敗するようなものである。こういう諺もある。大政治家は百年後を思い、中政治家は十年後を思い、下政治家は一年後を思うというのであるが、全くその通りである。処が今日はこの下政治家が一番多いように思われるのは困ったものである。又私の唱える無肥料栽培にしても、今迄の農業は金肥や人肥を施すと一時は成績が良いが、土を殺すから土は段々痩せてくる。それが気がつかないで、肥料の一時的効果に幻惑され、遂に肥料中毒に人も土も罹ってしまうのである。この理は現代医学にて当はまる。薬剤や機械的療法は一時は効果を奏するが、時が経つと逆作用が起り悪化するが、最初の一時的効果に眩惑されて飽迄同一方法をとる其結果益々増悪するという事になるのである。

 最初に述べた一時的と永遠的との物の観方について注意を促したのである。

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