昔から神憑(かみがか)りなるものはすこぶる多く、その種類も千差万別である。そうして現代識者といわれる程の人等は全然迷信と片付け一顧だも与えないばかりか、神憑りなる言葉さえ嘲笑的意味にしか使用されないのである。しかしながら私の研究によれば、神憑りなるものは決して迷蒙的のものではなく、正邪の差別はあるが、それを正確に判別し得る眼さえあれば有用なる存在である。そうして神憑りは三種に区別する事ができる。第一は真の意味における神(正神ではあるが上中下の階級がある)の場合と、第二は動物霊等が神を詐称(さしょう)する場合と、第三は人霊の場合とである。第一においては、例えば何々宗の教祖即ち天理教における中山みき刀自(とじ)、大本教の出口直子刀自、徳光教の金田徳光師、人の道の御木徳一師、その他金光教、黒住教等の教祖や、往昔の広法、日蓮、法然、役(えん)の行者等のごときはそれであり、第二は世間数多くある訝(いぶ)かしい宗教、稲荷下しの行者、飯綱使い等の類であり、第三は人霊重に祖霊や近親者の霊等であるが、これは神憑りではなく霊憑りと称すべきが本当である。したがって神憑りに対し判別なし得る能力を養ってその取扱いと指導が宜しければ、人類社会に少なからず役立つのである。しかしながら神憑りに対する知識浅薄の場合、弊害発生の懼(おそ)れもある事は自明の理である。欧米においては心霊科学の研究はすこぶる盛んで、英国をはじめ、神霊大学等も各地にあり、有力なるミージャム(霊媒)も数多く輩出しつつある。霊界よりの通信者として、かの米大統領故ウィルソン氏や、ロンドンタイムス紙社長故ノースクリフ卿等のごとき錚々(そうそう)たる霊の自働書記や、霊話通信の記録は注目に価するものがある。しかしながら何処も同じで、欧米においても識者と称する頑迷なる人士や、唯物一点張りの科学者輩の否定と常に戦いつつ研究を進めている現状であるが、良い事には彼地では今迄の日本に見るような封建的取締りがないから研究は自由である事で、それに引換えこれ迄の日本は、政府の弾圧と学者の反対の為何等見るべき研究が行われなかった事は遺憾の極みであった。