光が見える話は、今迄にもチョイチョイ御蔭話中にも見るが下記の話は光、色、霊衣等色々の種類が見え、而も潜在意識などのない九歳の少年であるから、特に面白いと思うのである。此事は私のかいたものに悉く出ているから、信者は知っているであろうが、其中で言葉によって色が違うという事は面白いと思う。之は確かにある事で、よく言われる黄色い声とか、白々しい事をぬかすとか、そんな話を聞くと暗くなるとか、そんな言い草はまだ青いよ、などの言葉もあり、実に面白いものだと思う。
言霊から御光が出る
『栄光』112号、昭和26(1951)年7月11日発行
兵庫県N市 K.Y(32)
去る五月二十五日、従来私が布教させて頂いている兵庫県下淡路島D様方において、大光明如来御神体御奉斎を機会に、M先生を御迎えして昼夜二回にわたり講話会を開催さして頂いた折の事であります。
夕刻信者のNさんが、一子T(九歳)ちゃんを連れて参られ、M先生の御浄霊を依頼されました、以前から心臓が悪く、幾分霊的な点のある御子様であります、最近お光が肉眼をもって見えるという御話がチョイチョイありますが、この御子様もそれが見えるのであります、御浄霊される御手からばかりでなく、御神体からも金色の光が放射されていると申します、先生が、どの御文字から一番出ますかと聞かれますと、「明」という御文字と「来」という御文字が、一番お光が強いと申します。
やがて先生が天津祝詞を奏上されると、その口許を不思議相に眺めていたその子は、「おじさんの口からも金色の光が出る」と申すでは有りませんか、並いる一同唖然としていると先生が「では今度はどんな色ですか」と「馬鹿! 阿呆!」と怒鳴られました、すると、「ああ、薄黒い色になって仕舞った」そして先生の話される言葉の内容、調子によって、絶えず言葉の色はあるいは黄や白や種々の色に変化して行くのだそうです。
私共は、常に言霊という事を伺っております、そして人の発する言霊のいかんによっては、霊界や、いう人聞く人の魂を曇らせたり、浄めたりするのだから、すべからく美しき言葉、人を賞め讃えたりすべきで、悪口雑言、愚痴、泣き言を慎むべきだとの御注意を頂いておりましたが、今目前にこの奇蹟を見せられて、今更に一同感じ入った事でした。
更に先生が、あるいはこの子供は霊衣が見えるかも知れぬといわれたので、その部屋の電灯を消し、次の部屋の光で照らされながら、各人の姿の上に、何か見えないかと尋ねました、すると凝視していたその子は、各人の輪廓の上に厚いのは一尺近くから数寸、更に一寸位迄に白い色の影が見えると申します、勿論熱心な信者の方で、その熱心な信仰の度合に順じ、更に熱海参詣勤労奉仕した方から、順次中教会本部、教会への参詣の度数に応じて厚薄が歴然とあり、不熱心な方、更に未入者の方は、ほとんどあるかなきかで、その判然さに一同感激また一入のものがありました、霊衣とは魂の光で、敬虔なる者、善を考え、善を為し、健康なる者程厚く、その反対の者程薄く、霊衣が厚ければこそ、種々の危難危急を免れる実例の御話等で、その夜の講話会は一入感銘深きものとなりました。
こうした光の色、光の波は、到底肉眼をもってしては見得べからざる超微粒子であって見えないのが普通であるべきです、しかし何らかの神様の御必要で、あるいは我々の信仰を高め、神の実在を認識させんが為には、神様はこの無心な、邪気のない素直な幼児をして、この奇蹟を現わされたのでありましょう、見ゆるもよし、見えざるも可、要は私共の神様への信仰とその実在の認識が素直になり切れるか否かが、私達の救われるか否かでありましょう、この奇蹟は当日参会された数十人の入信、未入信の方々への神様の御啓示でありましたでしょうが、又信仰薄き布教者としての私への神様の御警告であり、御激励であったと私は信じ、謹み畏んで更なる精進を誓うものであります。