序論 『新日本医術書』昭和11(1936)年2月8日執筆

 そもそも、医術とは何ぞやと言えば、人間のあらゆる疾患を治癒し、完全なる健康体たらしむるのが、真目的である事は、今更言を俟(ま)たないところである。故に、真の医術が完成さるるに従い、人間の罹病率は年と共に減るべきであり、又、病気の種類も漸減し、その当然の結果として、人間各自の天寿、即ち天より享(う)けたる齢だけの年数を重ねて、苦痛のない眠るがごとき自然死の人が増加してゆかなければならないはずである。

 しかるに、現在までの事実はいかん。右と余りに反対の経路を辿(たど)りつつあるではないか。視よ、罹病率は日に月に増すのみであって、一人も病者の無い家はほとんど稀である。今日、国民の健康を厳診するにおいて、真の無病者は、果して幾人あるであろうか。恐らく十人に一人も難しいであろう。壮丁(そうてい)の体格が年々低下するという報告や、乳児死亡率が、有難くもない世界第一の統計を示すごとき、又、結核患者の撲滅に官民共に大童(おおわらわ)の努力を払い、多額の国費を使いつつあるに拘わらず、更に減少せざるのみか、今なお、一ケ年百二十万人の患者と、十余万人の死亡者を出しているという状勢である。又、病気の種類に見ても、増加するとも減少しない事実は、何を物語っているであろうか。今日男子にして、高等教育を受け、有為の才を抱きながら、病床に呻吟しつつある者、又は修業の半途において、病患の為に挫折し、可惜(あたら)青春の身を以て、煩悶の日を送りつつある者、又は相当の地位や、成功を収めて、大いに国家社会に尽さんとする頃、病に斃(たお)るる者、又、婦女子にして、病弱の為に妻としての、母としての天賦の務を完うし得ざる者、婚期を過す者、愛児の早逝〔世〕による悲嘆、その他不具、変質、発狂等、これらが原因となって、不幸逆境に沈淪(ちんりん)する者のいかに多きかは、誰もが余りに知り過ぎている事実である。今仮に、一家に一人の重患者を出すとすれば、長年汗した貯蓄は、たちまち費消されるべく、況(いわ)んや二、三人の重患者、又は死亡者の生ずるにおいては、相当の資産をさえ、蕩尽されてしまうという悲惨事は、到(いたる)ところに見るのである。今日、社会の敗残者、無産者のその原因の病気に困る事のいかに多いかは、周知の事実である。故に、世人の病気を恐るる事、今日よりはなはだしきは無く、その弱点に付け込まれ、効果疑問の売薬や滋養剤を、巧妙なる広告戦術に魅せられて、多くの病者の財嚢(さいふ)は相当搾(しぼ)られ、窮乏線に拍車を掛けられている状態である。

 そうして、一度重患に罹るや、驚くべき高価なる手術料や、多額の入院料を負担させられるに拘わらず、その治癒するの遅々たる、治病率の低き、実に当事者の言に徴するも、五十パーセントも難しいとの事である。

 慶大の草間博士は、公開の席上において、明言していわく、「現代医学では、病気は決して治らないのであるから、今後は病気に罹らない医学、即ち予防医学に依って各自の健康を保つより外に、最善の方法は無いのである」と。実に正直にして良心のある、真の学者の言であると思うのである。

 故に、賢明なる医師は、西洋医学での治病の無力を痛感して、止むなく漢方医術、灸治、その他の民間療法に着目し研究せんとする者、簇出(そうしゅつ)しつつあるの実状である。

 以上説く所の事実によって見るも、現代医学の真価は明かである。なる程、黴菌発見や、基礎医学方面にては、多少の進歩の跡は見るけれども、治療方面においては、実に十年一日のごとしと言いたい位である。しからば、この真因はどちらに在るであろうか。その発見こそは、まことにいかなる政治よりも、経済よりも、発明よりも、緊要事であろう事である。言うまでもなく、国民の不健康程、国家の損失はあるまい。今や、躍進日本の地位より観て、今後益々欧米人に伍して相競うは固より、望むらくは、白人種を凌駕するまでにならなければならないところの、重大使命を持つ日本人として、実に健康こそ何よりも最大根本問題であらねばならない事である。

 しからば、現代医学の誤謬は、いかなる点に存するのであろうか。それは実に、その出発点において、重大なる錯誤がある事である。それが、この書中に詳述してあるから、熟読玩味するにおいて、何人といえども豁然(かつぜん)としてその蒙(もう)が啓(ひら)け、病気の真因も、健康の要諦も、天日(てんじつ)の下に晒さるるがごとくで、無医薬療病に依って、病患は根絶さるる事を、覚り得るのである。

 実にこの新日本医術であり、明日の医学とも言うべき観音力療病と健康法の真髄こそは、人類の歴史有(はじま)って以来恐らく空前であろう程の、一大福音である。又、私が余りに狂人にも等しい、大言壮語する事に対して、反って疑を持つ人がないとも限らない事であるが、それは、たとえばいかに食物の美味を説明しても、口へ入れなければ判らないのと同じである。とにかく、実験と体験である。私は全責任を以て、私の言の一点偽りの無い事を誓うものである。
           (昭和十一年二月八日)

タイトルとURLをコピーしました