今回の話は、私が見た夢の話しですが、導入として当時の状況に少し触れてから、本題に移りたいと思っています。
教団紛争(浄化)が起きてまだ数年という頃で、当時のことをご存知の方もいると思いますが、昭和61年の3月末には、三代教主様が「静観」と称して表舞台に姿を現さなくなりました。また、同年9月にはプラザ襲撃事件が発生して、MOA美術館も一時閉館せざるを得なくなりました。そのように混沌として、行く先が見えないような状況の中で、本部から召集されて30歳の誕生日の翌日に本部に向かうことになりました。
私は、担当エリアの信者さん方の情熱のお蔭で、毎月のようにお導きが許され、新設された布教所を任されていた時に、ふとしたことで30歳になったら本部に行きたいと思ったことがありました。しかし休みらしい休みもなく忙しい毎日を送り、27歳の時には異動もあって、そのような思いは薄れていました。本部行きが決まってから、そのことを思い出し、「本人が忘れていたことを、30歳の誕生日の翌日に実現してくれるなんて、明主様は何という粋な計らいをしてくれるのだろう。」と勝手に感心したり喜んだりしていました。
しかし、本部に着いて驚いたのは、私たちを外部の人に預けるという現実でした。教団(再建派)から紛争解決のための業務委託をされていた人のようですが、ここでは仮にS機関としておきます。本部から召集されたのは、私を含めて5人でしたが、その日の夜に、Sさんの部下の人たちと顔合わせをしました。その時は、今まで歩いてきた世界とは、全く別の世界での生活が始まるという不安しかありませんでした。案の定、翌日から不安が的中して、他のメンバーはどう感じていたかは分かりませんが、私は嫌でイヤでたまりませんでした。しかしこれも御用だと割り切って、嫌な顔も見せずに努力をしました。
そして数ヶ月が過ぎたころに、私だけがSさんの協力者であるYさんの高輪のマンションに居候して、Sさんの水道橋近くの事務所に通うことになりました。ここでも様々なことがありました。善良なる信者さんを相手にして、一人でも多くの人を救いたいという希望を膨らませていた私にとっては、世間の広さと深さを見せつけられた感じがしました。布教現場にいたころのストレスとは、全く違うストレスを感じながら、いつになったら人救いの現場に戻れるのだろうとか悶々としていたように思います。
また、私たちが本部に行ったときは、長期出張ということだったようです。単身赴任だと一ヶ月に一回の帰省が認められていたようですが、妻と生まれてまだ二歳にもなっていない息子に、半年のあいだ会えずにいました。そのようなことを、他のメンバーが担当課長に話した際に、「それでは、一回帰省しますか。」ということで、休みらしい休みをもらいました。他のメンバーは自宅に帰ったようですが、私は妻と息子を東京に呼び、ウィークリーマンションを借りて、箱根、熱海の聖地を巡ったり、ディズニーランドに行ったりして、半年ぶりの再会を楽しむことができました。仕事に出かける朝には、息子が号泣して、私も妻ももらい泣きしてしまいました。
それから、また更に半年たって、ようやく本部への正式な異動ということになりました。私たち家族は、引越しの準備をして、旭川から沼津の借家へと車で向かいました。引越し当日の朝に無事に県営住宅に到着しましたが、運転していた途中から、右足の親指の付け根に痛みを感じ、到着した時には歩くこともままならい状態でした。後日、病院に行ったら「痛風」だと言われました。精神的なストレスと肉体的なストレスが重なって痛風の発作が起きたのだろうと思っています。
それからしばらくして、不思議な夢を見ました。妻と二人で、立派な御屋敷の二階の和室で庭を眺めていました。二人で「凄いね。素晴らしい庭だね。」などという会話をしていたら、突然「明主様のお出ましです。」という女性の声が聞こえました。私たち夫婦は、慌てて床の間の前に平伏して、明主様のお出ましを待ちました。やがて階段を上がってくる足音が聞こえて、その時に夢は醒めました。その夢では、私たち夫婦しかいませんでした。突然、明主様のお出ましですという夢を見たのは、どんな意味があってのことなのか。何故、明主様は、床の間の前にお座りになって、お言葉をかけてくださらなかったのか。いろいろと考えましたが、分かりません。分からないことは、考えないことが一番だと思って、しばらく放っておきました。
その後、教団が警備会社を設立するということで、私はそこへ出向することになり、他のメンバーより一番早く教団に復帰することになりました。そしてある研修で、神仙郷の原点とも言うべき神山荘の「上の間」に上がった時に、そこの窓から見たお庭の景色が、夢と全く同じだったことに驚きました。
私は、布教師でありながら、何故、救いの現場を離れて、S機関の人たちと付き合わなければいけないのかという気持ちで、相当にストレスをためていたのかも知れません。Yさんのマンションに居候していた時もそうですが、救世会館奪還作戦の時には、私の精神は極限状態だったとも言えるでしょう。妻から「人格が変わったみたい。」とまで言われたことがあります。
そのような私に対して、明主様は「それもこれも私の御用なんだよ。あなた方には、特別な御用をお願いしているんですよ。」と言いたかったのではないかと思いました。お姿も見せずお言葉もありませんでしたが、「明主様のお出ましです。」という夢を通して、「私の大事な御神業を担ってもらっているのだから、覚悟して頑張りなさい。」という想いを知らせて下さったのではないかと、後になってから気づいた次第です。突然、明主様に関わる夢を見るということは、中々無いことだと思います。また見たいと思っても、見ることはできないでしょう。その意味では、貴重な体験でした。
普通に布教師としての専従生活を送っていたならば、恐らく一生涯を通じて会うことのない人たちと寝食を共にするということは、正に「特別な御用」だったと思います。この期間には、SさんやYさんの他にもさまざまな人との出会いがありました。それらの一つ一つが私の血となり肉となって、現在に至っていると思っています。
正に、30歳の誕生日の翌日の本部行きというのは、明主様のご経綸に仕組まれたことであったとつくづく思うと同時に、私にとって大きな転機となるものでした。そして、そのことを裏付ける「明主様のお出ましです。」という夢だったと思っています。また、ご神業上において、極限的な状況におかれた時には、明主様は何かの形で手を差し伸べてくださり、気づきを与えて救ってくださると、確信を持って言える体験でした。
by Mr.Right