今回の話は、私が体験した奇蹟の中でも、第一級の超奇蹟の話です。
私は、学院を卒業した最初の赴任地が函館でしたが、三つ上の先輩が青年会と檜山支庁管内を担当し、私は学生会と渡島支庁管内の西部を担当することになりました。
数年後、この地域に拠点を新設しようと動きが地区内で起こり、檜山管内の江差町にするか、渡島管内の木古内(きこない)町にするかという状況になりました。最終的には、地区本部長のご出向を仰いで、信者さんの集会への参加状況や盛り上がりが多少多かった木古内町に新設することになりました。地理的にも、当時は、江差町方面へも松前町方面へも、電車も通っていましたので、交通の要でもありました。私が担当していた地域ということもあって、23歳で初代の布教所長になりました。
ちなみに、木古内町の西は知内町で北島三郎の出身地で、その隣の福島町は昭和最後の大横綱千代の富士の出身地です。更にその西隣は、桜で有名な松前城のある松前町です。布教所が新設された当時に担当していた地域は、上記の渡島西部と奥尻島を含めた檜山管内全域で、非常に広範囲でした。
今回の話は、松前町の西のはずれの江良という漁村でのことです。担当地域が広範囲のため、月一回福島町に一泊して、そのあと江良に一泊して、江差に一泊するという行程で、ご浄霊や勉強会などの布教活動をしていました。それもすべて代表信者さんの家に、夕食と朝食付きでただで泊めさせていただいていました。今では考えられない布教活動だったと思いますが、正に貴重な開拓布教を経験させていただきました。
当時、江良には7世帯しか信者さんはいませんでしたが、集会を開いても全家庭から参加することは珍しく、代表のKさんは、「私たちは、信仰を辞めないが、私たちが死んだら、江良には一人の信者もいなくなる。」とよくいっていました。私も、そうだろうなあと思いながらも、信仰の灯火を消してはいけないという思いで、毎月毎月小さな黒板を使って、明主様の御教えの基本を話していました。
そういう営みをしてから一年ちょっと過ぎた頃だと思いますが、Kさんから「近所に、五歳の女の子で、話すことも、立つこともできない子供がいるが、ご浄霊で治るでしょうか。」という電話がありました。信仰の灯火は消えていなかったのです。ただ私は、「治るかどうかは私には分かりません。治してくださるのは明主様ですから、あなたが治ってほしいと思うなら、勇気をもって話してみてはどうですか。その勇気に、明主様が感応して下さるかどうかだと思いますよ。」という返事をしました。
もっと優しい言葉や、希望の持てる言葉をかけてほしいと思っていたに違いありませんが、私はその辺が不器用な人間です。再度電話があったのは、数日後でした。「何とか治してあげたいという思いで、勇気を出して話してみたところ、いろいろな病院に行って、大学病院へも行ったが良くならないし、人に誘われて拝み屋さんにも行ったが良くならない。もし、少しでも治る見込みがあるなら、何でもやってみます。是非ご浄霊をお願いしますということでしたので、今度江良に来た時に、是非先生からもご浄霊をお願いします。」ということでした。私は、「分かりました。よく勇気を出して話をされましたね。今度江良に行った時に、是非会わせて下さい。私もご浄霊をさせていただきますので・・・。」ということで電話を切りました。
そして江良での勉強会当日に、五歳の女子(ひーちゃん)とお母さんとおばあちゃんの三人が、Kさん宅に来ていました。私は、一通りの勉強会のあと、自分が小児麻痺だったことやご浄霊についてなどを話して、ご浄霊を取り次がせていただきました。そして、「治るかどうかは分からないが、毎日Kさん宅でご浄霊を頂いてみて下さい。」と勧めました。お母さんとおばあちゃんは、藁にでも縋りたい思いだったと思いますし、お店をやっていたKさんも、他の信者さんも快く引き受けてくれて、一緒に頑張りましょうということになりました。しかし、私の第一印象は、非常に厳しいというのが、正直な気持ちでした。私は、布教所の御神前に御祈願書をお供えして、参拝に来られた信者さんにも話をして、一緒に御祈願する日々を送ることになりました。
そして約一ヶ月後の勉強会に、少しは変化があっただろうと期待して行きましたが、全く変化はありませんでした。残念な思いを抱きながらいつものように勉強会をして、ひーちゃんにご浄霊をしながら、いろいろ考えていました。そして、玄関や居間、寝室やトイレなどに、お花を飾ることを提案しました。しかも、高価な花でなくてもよく、たったの一輪の花でよいこと。それは自分の家の庭に咲いている花でもよく、知り合いの家に咲いている花を頂いたものでもいいことを話しました。勿論、明主様の「花による天国化運動」「美による救い」の実践をお願いした訳です。恐らく、十分に意味の分からないままだったと思いますが、取り組むことを約束してくれました。布教所では、日々の御祈願は勿論のことですが、月次祭や勉強会の折にもひーちゃんの話をして、一緒に御祈願をお願いしていきました。
そして次の勉強会に行った際にも、何の変化もありませんでした。今度は、食事に自然食を取り入れるように勧めました。勿論、体内からもお浄めさせていただこうということで、これも「自然農法・自然食の救い」の実践をお願いした訳です。理解してくれたかどうは分かりませんが、帰りには醤油や味噌や塩などを購入していかれました。江良は遠方のために、Kさん宅に保存のきく自然食品を置かせていただいていました。
更に翌月の勉強会の時も、全く変化は見られませんでした。明主様の救いの三本柱を実践して、すでに三ヵ月以上が経過していました。いつものように勉強会をして、ひーちゃんにご浄霊をお取り次ぎして、今度は先祖供養の大切さを話させていただきました。例えば、仏壇にお花を飾ること、一日に一回お膳をお供えすること、先祖代々の位牌をお祀りすることなどを話しました。不安や焦りの気持ちもあったでしょうが、取り敢えず実践することを約束してくれました。
更に一ヶ月後の勉強会に行った際には、何の変化もない状況に、お母さんもお祖母ちゃんも、Kさんや他の信者さんも、不安そうな感じが明らかに見て取れました。私も重苦しさを感じながら、いつものように勉強会をしたあとに、ひーちゃんにご浄霊をお取り次ぎして、お光には強弱があるという話をしました。そして、布教所に参拝して、ご浄霊を頂くことを勧めました。しかも平日ではなく、大勢の信者さんが集まる月次祭に参拝するように勧めました。この時も、不安を感じながらも参拝することを約束されました。
翌月の月次祭に、江良の信者さんが運転する車に乗って、ひーちゃんとお母さんとお祖母ちゃんが参拝されました。月次祭に来られていた信者さん方も、毎日御祈願しているとはいうものの、本人を見るのは初めてで、可哀そうに思ったに違いありありません。どことなく祝詞の声が、いつもより大きく力強く感じました。月次祭終了後、布教所の御神前で、何とかご守護をいただきたいという思いでご浄霊を取り次がせていただきました。
さてそれから十数日後、また江良の勉強会に行く日になりました。私の気持ちは、暗く重苦しかった。「ご浄霊」と「お花」と「自然食」という「救いの三本柱」の他に、「先祖供養」や「布教所参拝」も勧めてきて、全て救われたい一心で実践をしてきていました。Kさんが勇気を出して声掛けをしてから、もう半年が過ぎようとしていました。今日は、何の話をしようか。あとは聖地参拝を勧める他にはないという気持ちでいました。同時に、ひーちゃん一家が聖地参拝もされて、それでも良くならずに、「この宗教に頼ってはみたが治らなかったという思いになって離れていくならば、それはそれで仕方のないことだ。」という思いにもなっていました。そしていつもの勉強会のように、小さな黒板を準備して、いつものように話をし出してしばらくした頃だと思いますが、お母さんの膝の上に抱かれていたひーちゃんが、「しぇんしぇい(先生)」といって、お母さんの膝の上から、自力で立ったのです。
その場にいた全員が、何が起きたのか、一瞬理解できなかったと思います。1秒か2秒かの沈黙のあと、大歓声とともに拍手に包まれました。お母さんもお祖母ちゃんも、そしてKさんも涙で目を潤ませていました。私たちが、神様の、明主様の奇蹟を目の当たりにした瞬間でした。奇蹟は、突然に起きたのでした。この感動の中では、勉強会での私の話など、無意味以外の何ものでもありません。Kさんは、店に下りて飲み物やお菓子などをいっぱい持ってきて、祝宴となりました。何という奇蹟でしょうか。誰もが諦めかけていたときに、「みんな、よく頑張った。」とでもいうように、超奇蹟が起きたのです。
その後のひーちゃんは、順調に回復して、言葉もしっかりしてきましたし、歩くだけでなく走り回れるくらいになり、小学校に普通に通えるようになったのです。この奇蹟は、そんなに大きくない江良の村に広がり、「私も、ご浄霊を頂きたい。」とか「私も、入信したい。」という人が、次から次へと現れてきました。しかし私は、入信したいといっても、青田刈りのようにすぐには許しませんでした。ひーちゃん一家が取り組んだように、明主様の救いを一つ一つ実践して、ご浄霊のお取次ぎができないだけで、信者さんと同じようなレベルまで努力した人を、順番に入信を許していきました。私が許すというような驕り高ぶった意味ではなく、布教所の御神前でたった一人参拝して、今月の入信者を明主様にお許ししていただくという感じでした。しかも、一家入信を基本としていましたので、それまでのように、入信即未活動信者という状況は避けたいとも思っていました。そういう遅々とした営みでしたが、一年半後くらいには、7世帯しかいなかった江良の信者さんが、40世帯近くまで増えました。
その後まもなく、私は旭川に異動になり、その後のひーちゃん一家のことは把握していません。しかし後任の所長が、入信対象をいっきに30数名入信させたと聞きましたが、その後は増えていないようです。その先輩は、成果第一主義で「呼び水」ということを知らなかったのだと思います。
今回の体験談は、下半身不随の小児麻痺だった私が、脳性麻痺の5歳の女の子の救いに携わることができたという、不思議な奇蹟の話でした。ただこの奇蹟の最大の功労者は、勇気を出して声掛けをしたKさんだと思います。彼女の勇気ある声掛けがなければ、このような奇蹟を目の当たりにする体験はできませんでした。
「浄霊大行進 あなたの勇気 あの人救う」
これは、支庁本部で標語募集があった時に、私が出した標語ですが、一位になったものです。決して、自慢するために載せたわけではありません。いつの世も、あの人を救いたいと思った時に、必ず勇気が必要です。厳しい浄化であればあるほど、治るかどうか確信が持てない中で、「ご浄霊を受けてみませんか。」という一声をかけることは、とても勇気のいることです。
しかし、明主様は、その勇気に、その真心に、その信仰心に、ご感応して下さるのだろうと思っています。
私は、明主様を信仰しているあらゆる教団の信者さんに言いたい。「明主様に帰一しましょう、組織信仰を離れて明主様に帰一しましょう。世界の人々が健富和に満ちた世界に住めるように、あらゆる争いを無くしましょう。その為には、明主様に帰一する以外にはありません」と言いたいのです。
「明主様に帰一するということは、どういうことなのか。」を、全ての関係者に考えてほしいと思います。現状維持では駄目だと思います。
by Mr.Right