それから面白いもので、私は前から金を損するんです。信者さんの血や汗の金ですからね。出来る丈使わない様にするんですが、何時の間にか無くなる。ヒョッと瞞される――瞞されると言うが、馬鹿馬鹿しい無駄な金を毎年使うんです。何んだと言うと、信者さんから寄附金が来ますが、その金の中に、段々洗いあげて行くと、やっぱり不純なものが――穢れたものが出来るんです。どの金が穢れている、どの金が穢れていないと言うんじゃないんですよ。神様は全部の金を選り別ける――浄化ですね。そうすると、カスが出来る。それ丈はどうしても、地上天国を造る上に於て、使う訳にはいかない。それ丈はどうしてもなる。この間の自動車――あれもそれなんです。ですから、之は大乗的の説き方ですがね。大乗から見ると、人間の判断では簡単に分からない事が良くある。それですから、何かあった場合でも、大きな――全体的に大きな見地から考えて、大体分かる訳ですよ。
私は今迄、あの人は悪い、気を付けなければならないと言われても、やはりその人を使いもするし、会いもするし、色々やります。やっぱり大局から見ると、何かお役に立つ事をしているんですよ。で、之は大本教のお筆先に「今度は三千世界の大芝居だ」と言う事があるが、これは面白い事ですね。つまり芝居なんですよ。芝居と言うものは善人ばかりじゃ芝居にならないんです。悪役がなくちゃね。善人が悪人に苦しめられるという事が、一つの、狂言の筋なんですからね。そう言う点から言っても――教団には悪役はないんですが、その人の考えが、良いと思って――信者の為だと思うんですね。神様の為だと思うんですが、それが智慧が足りない為に間違った事を良い事と思う事がよくあるんです。叡智ですね。神様の為と思うが、そうじゃなくてお邪魔になる事があるんです。叡智と言うものが必要なんですが、叡智と言うものは相当の修行しないと得られないんです。又互に言い合って居ることに、話を聞いて見ると、どっちも合っている場合がある。それも芝居の役としてやらせられているんですから、だからさっきも言う通り、一番まずいのは決める事です。よく、邪神々々と言いますが、あれが一番悪いですね。之は口にしてはいけないですよ。邪神だって良い働きするんだからね。神様には必要なんです。自分が邪神にならなければ良い。人の邪神は気にする事はない。大きにお世話です。だから私は今度も書きましたが、人を邪神だと言う事を言う人があるが、それはその人が神様になるので、神様の地位を冒しているんだからね。邪神と言われるが、言う人は大変なものですよ。神様の地位になるんだからね。神様じゃない、人間とすれば、大変な冒瀆ですね。神様になっちゃうんじゃなくて、神様の上になるんだから、この人は本当の邪神が憑いていると言う事になる。第一邪神か邪神でないかと言う事は分かるものではないですよ。狐が憑いているから邪神だと言うが、狐だって立派なのがあるんですよ。もし必要がなければ、神様が無くしちゃいますよ。必要だからあるんでね。善悪を決めると言う事は中々難かしいものですよ。あいつは邪神が憑いてると思う。その思う事は良いが、あいつは邪神だから気を付けろと人に言います。と、言うことが罪になる。あの女は、俺は惚れた。あいつは良い女だと、それ丈は構わないです。仕方がないですからね。キリスト教では、姦淫の罪になりますがね。けれども手を握れば、そこで罪が発生する。こう言う話は幾らしても切りがないですからね。その位にしておいて。