[日々雑感]『岡田先生療病術講義録』の時代背景

 こんにちは、『岡田先生療病術講義録』を掲載中ですが、前々回の[日々雑感]昭和10年元旦開教から終戦まで。雌伏10年。で、その当時の様子を概略説明していますので、是非併せてお読みいただければと思います。

 メシヤ様は厳しい時代背景の中で、何度も弾圧に合いながら何回か講義録を出されています。その中の昭和11年7月にお書きになられた『岡田先生療病術講義録』がどんな経緯で出されたものか、わかる範囲で書かせてもらいます。

 ご存知のように、昭和10年元旦に発会した「大日本観音会」は、小さな組織ながら急速に成長を続け、ここでは詳細は割愛させていただきますが、教団内外で素晴らしい発展を続けていたようです。

 しかし、昭和11年に入ってからは何回か取り調べを受けたりなど、峻厳な官憲の取締りに対処するという目的もあり、先手を打って昭和11年5月15日「大日本健康教会」を発足させるのですが、はたせるかな、発会のすぐ後、官憲の干渉が強化されていき、メシヤ様は断腸の思いで昭和11年7月1日、「大日本観音会」を自ら解散せざるをえなくなりました

しかし厳しい時代の中で、教祖はただいたずらに手をこまねいていたのではなかった。宗教活動としての「大日本観音会」を自らの手によって解散したとは言っても、治療の形を取って活動を続ける「大日本健康協会」に、すべての情熱を注ぎ込んで行ったのである。そして「大日本観音会」解散からまもない7月6日を皮切りに、玉川郷を会場として岡田式療病術の「夏季特別講習会」というものが開かれた。この講習会は12回にわたる集中講座の形を取り、ほぼ隔日に行われている。その時参加した5、60名の治療士に対して、教祖みずから全講義を担当、西洋医学を批判し、その誤りをついたのであった。

 しかし当局の締め付けはあくまでも厳しく執拗であった。講習会の開催に神経をとがらせた警視庁は、7月28日、なんの予告もなく突然に「療術行為禁止の命令」を出したのであった。この禁止令は事実上「大日本健康協会」そのものの解散を意味していた。『日記』には次の二首が記されている。

  晴天のヘキレキの如(ごと)警視庁より療術禁止の命令来りぬ

  命令の理由は更に解らざり其虐政の嘆かれるかも

東方の光 下巻 p73、74

 「東方の光」に上記のようにあり、『岡田先生療病術講義録』はこの時の「夏季特別講習会」のための講義録だったようです。

 昭和10年に盛んに行われていたであろう『観音講座』も、わずか1年足らずで封印されしまったようです。
 しかし、筆記録にしても、開教当時のみ教えをこうして学ばせて頂ける時が来た事を大変有り難く思います。

 ただし、この当時の御教えは社会情勢が大変厳しい時代でしたので、メシヤ様も言葉を選び、必ずしも思いをストレートに伝えれなかったお言葉もあったと言う事を鑑み、読み進めて頂くことをお願い致します。

             八尾屋

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