御論文

栄光

宗教と妨害(栄光172号 昭和27年9月3日)

今度の御神業に於ける正邪の戦いは、古往今来嘗てない程の千変万化、虚々実々きょきょじつじつの大芝居で、只神秘と云うより外はないのである。処でそれについての大きな問題は、地球の一大転換である。それは昔から今日迄の神と悪魔の戦いで即ち夜の世界であったからで、神の方が一旦敗北すると、挽回に相当の時を要したものが、最近に至っては非常に狭せばまって来た事は信者も知る通りである。処が今や昼の世界に移りつつあるから、邪神の力は段々弱まって来た
お蔭話

噫々(ああ)不可解なる哉(栄光170号 昭和27年8月20日)《お陰話》手術を拒んだ盲腸炎浄霊一夜にして全快 

病院内の出来事で、医師が極力手術を勧めるのを無理に押切って、夜通し浄霊した処、翌朝になるや見事全快して了ったのである。其時医師が腹部の何処どこを圧おしても、少しも痛みがないので、周囲の者は皆驚天ぎょうてんしたという信じられない程の奇蹟である
栄光

東洋美術雑観(4) (栄光170号 昭和27年8月20日)

支那美術としては一番陶磁器が古いらしく、今から四千年前既に相当なものが出来ている。其中で今日残っているものにアンダーソンというのがある。之はアンダーソンという学者が発見したもので、其名があるという事だが幸いにもこの陶器の大壷が手に入り、本館へ出してあるからみれば分るが、其様な古い時代に、斯んな好いものが出来たというのは、到底信じられない程である
栄光

医学関係者に警告する(栄光171号 昭和27年8月27日)

各国の専門家等は最大級の熱意を傾けて研究すると共に、政府当局者も医師の指示通りの施設万端、能あとう限りの努力を払っているに拘かかわらず、病人の氾濫は停止する処を知らない有様で、常に悲鳴を上げているのは誰も知る通りである。としたらこの様な誤謬医学は早晩退陣の止むなきに至るのは、火を睹みるよりも明かで、其時期は目前に迫っているのである。という理由は私によって、真の病気の原因が発見されたと共に、機械も薬剤も何等物質的のものを用いずして、如何なる病気も全治可能の方法が生れたからである。
栄光

本教と社会事業(栄光171号 昭和27年8月27日)

そうして今一つの重要な事は、本美術館は位置といゝ、環境といい理想的であるから、之から増えるであろう観光外客に対しても、日本文化の優秀性を紹介する上に於て、相当な貢献が出来ると思うのである。
地上天国

狐霊の実体(地上天国 39号 昭27年8月25日)

そうして浄化による肉体的病苦は、信者なら分っているが、憑霊による事も仲々少なくないので、之について私は今迄余り説かなかったのは、迷信に見られ易いからと、今一つは憑霊現象と雖も、それに相応する霊の曇りがあり、浄霊で其曇りが解消して治るのであるから左程重要なものでもないからである
栄光

起死回生の奇蹟(栄光169号 昭和27年8月13日) 《お陰話》「20mの崖より落ちし瀕死の吾子救わる」 

吾々は常に人間の命は、神の御手にあるものと唱えているが、現代科学で固まった頭脳では、到底信じられないのは無理はない。というのはそれ程の奇蹟はキリストの奇蹟以来、二千年に渉った今日まで未だ聞かないからである。処が左の御蔭話は病院内での事実であるから、何としても疑う余地はあるまい。一信者にして之程の奇蹟を顕わす事が出来るとしたら、二十世紀の大問題である
医学断片集

医学断片集(15~19)*発育の遅れる児童/眼にゴミ/頭脳/赤痢菌/再浄化 (栄光165~169号 昭和27年)

頭の病気は、首の周囲、延髄、後頭部の辺あたりを主として、浄霊するように曰いってあるが、近頃は前頭部から額、顳顬こめかみ等の部分に、浄化の発おこっている人が多いから、その辺をよく浄霊した方がいい。その場合右の辺に掌を当ててみると、熱があるから直じき分る。従って前額部が冷たい人なら、先ず頭はいいと見て間違いないのである
歯根膜炎

医学断片集(11~14) *歯の痛み/脂肪肥り/治療という言葉/神経という言葉(栄光159号~162号 昭和27年)

医学では病気を治療する事は、全然出来ないといったら驚くであろうが、之は真理であるから仕方がない。では誰が治療して呉れるかというと、それは自分自身の体である。従って若もし医療で治るものなら、手術の必要はない訳である。つまり医療では病気の個所が治らないから、止むを得ず其個所を除去して了しまうのである,iryou
栄光

 天国建設と悪の追放(栄光169号 昭和27年8月13日)

前記の如く愈々悪不要の時が来たと共にそれが今日であるから容易ならぬ問題である。しかし之は臆測でも希望でもない、現実であって、信ずると信ぜざるとに拘わらず、それが最早人の眼に触れかけている。即ち原子科学の素晴しい進歩である。従って若し戦争が始まるとしたら、今度は戦争ではなく、一切の破壊であり、人類の破滅であるが、之も実は悪の輪止まりであるから寧ろ喜んでいいのである。而もこの結果今日迄悪が利用して来た文化は一転して善の自由となり、ここに待望の地上天国は生れる段階となるのである
栄光

『文明の創造』序文(栄光170号 昭和27年8月20日)

人類が数千年の長い間に堆積された処の罪穢ざいえであって、当然この大浄化作用が発生するのである。それを之から詳しく説いてみるが、幸い之を読む人々は救いの綱を目の前に出されたのであるから、何等の躊躇ちゅうちょなく掴つかまれん事である。それを前以もって人類に知らせ、悔改めを私は神に代って勧告するのである。之ぞ神の大愛でなくて何であろう、従って之を知った以上、一時も早く頭の切替へは固より、心の準備に取掛るべきである。そうして審判の最後に到っては、罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、之を信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである。
地上天国

御説教 (地上天国39号昭和27年8月25日)

本教は耳から目から、又言霊での清めもあるにはあるが、それらは従であって、主とする処は浄霊である。何となれば五官を介して清めるのは間接的方法であって、見えざる魂に対むかっての体的方法であるから、効果の薄いのは勿論である。処が本教浄霊に至っては、直接魂に対って霊光を注いで浄めるのであるから、其効果たるや到底体的の比ではない。恰度病気の治り方と同様、他の療法を散々行っても治らない病気が、短期間に訳なく治るにみても明かである
栄光

東洋美術雑観(3)(栄光168号 昭和27年8月6日) 

仏像の彫刻は世界最高の水準といえるであろう。実に日本が誇るべきものの一つとして世界的芸術品であろう。
栄光

東洋美術雑観(2)(栄光167号  昭和27年7月30日)

十九世紀の半ば頃と思うが、光琳を最初に発見したのは仏蘭西フランスの一画家であった。この画家が初めて光琳の絵を見るや、俄然驚異の眼を瞠みはったのである。というのはそれ迄ヨーロッパに於ては、長い歳月続いて来た彼のルネッサンス的美の様式が極度に発達し、就中なかんずく絵画に至っては写実主義の頂点に及び、行詰りの極きわみどうにもならなかった
お蔭話

結核新薬(栄光168号 昭和27年8月6日)《お陰話》奇蹟僅か八回の御浄霊にて絶対安静の肺浸潤快復 

吾々の方では結核菌など問題ではないからで、浄霊の効果は菌処ではなく、短期間で雲翳うんえいなどは吹き飛んで了しまい、綺麗サッパリになるからである。之こそヒドラジットの百倍の効果があると言っても過言ではなかろう。下記の実例はそれを遺憾なく物語っているにも拘わらず之を読んでも専門家諸君の反響もあるまいから、全く豚に真珠である。勿論もちろん其理由は宗教なるが故であろう
栄光

美術の社会化(栄光168号 昭和27年8月6日) 

何とかしてこの悪風を打破し美術の社会化を図りたいと思っていた。つまり美術の解放であり、一般民衆を楽しませる事である。そうしてこそ芸術の生命を活いかす所以ゆえんでもあると思い心掛けていた処、私が宗教家なるが故に、信徒の献身的努力と相俟って、割合短期間に完成したのであるから、私の長年の希望が達成した訳で喜びに堪えないのである。
お蔭話

見えざる神は見えた(栄光167号 昭和27年7月30日)

天理教々祖中山ミキ刀自が本教に救いを依頼した霊的事象である。処が之を狐霊とかいてあるが、実は天理教々祖としては、神格上普通の人間には憑れないから、狐霊を使ったのである。之について私は一昨年の事件の際、庵原いはら警察署の留置所に入っていた際、中山ミキ刀自を呼び出し色々話合った末、刀自は今後天理教の信者も救って頂きたいから、御頼みしたいというので、私は承諾した
栄光

新世界の誕生(栄光167号 昭和27年7月30日)

何故今日迄生命に関する程の重大問題が、不明の儘ままであったかという疑問であるが、之も無理はない。そこでこの事を想像してみると、科学文化を或程度まで進歩させる必要上そうされたのであって、之も神の経綸で、過渡期に於ける一時的現象である。それに対して神は其行き過ぎを訂正すると共に、唯物科学の分野と唯心科学の分野とをハッキリさせ給うので、之によって唯物唯心の科学は、歩調を揃えて進歩し発展し、ここに真の文明世界が生れるのである。一言にしていえば現在の旧世界は、ここに終りを告げ、新しき世界が造られるのであるから、私の仕事は其産婆役といってもいい訳である。
地上天国

文化的野蛮性 (地上天国38号 昭和27年7月25日)

薬剤無効果を遺憾なく物語っているではないか。いつもいう通り薬は一時的苦痛緩和手段であって、決して、治病効果など些いささかもなく、彼の麻薬と同様、薬中毒者が増えるだけである。薬の方はこの位にしておいて、次の手術であるが、之も勿論真の医療ではない。何となれば医療とは病だけを治す方法であって、臓器や筋肉を傷害し除去する方法ではない
地上天国

自観申す(地上天国 昭和25年1月20日) 

初め直径三寸位の木製の板の上に、恰度、歯医者が用いる赤色のアマルガムのようなものが、厚さ五分位に粘着しており、初めテーブルの横から、幽霊の手だけが見え、右のアマルガムへ触れようとした時、空中に声あり。「固いから今少し柔くしてくれ。」というので、温めて柔くすると、再び静かに手首が表われるや、極めて力ある動作で拇指を、アマルガム深く捺したのである--。という話であった
地上天国

結核ナンセンス(地上天国12号 昭和25年1月20日)  

前述の如く、結核菌は自然発生であって、決して感染ではない。私は今日迄幾千の人に対し菌の防衛手段をとらないばかりか、寧ろ感染するようにしたが、一人の感染者も出ないにみて明かであるから、この事が判っただけでも如何に救われるであろうかを想うのである。
地上天国

最後の審判(地上天国12号 昭和25年1月20日)  

キリストの火の洗霊は、いよいよ来らんとする最後の審判でなくてならない事になる。しかしながら水とは体的であり、火とは霊であるから、吾等が今行っている、霊を以て霊を浄める方法こそ、全く火の洗霊である。すると霊から体に移写するのであるから、火の洗霊が体的に如何に影響するか、之こそ空前の変異でなくてはならない。といっても危機は悪に対してのみ表われ、善には危機はない事を知らねばならない。
地上天国

巻頭言(地上天国12号 昭和25年1月20日)  

愈いよいよ1950年、昭和二十五年の年になった。というだけならいつもの年と変りはないが、実は今年こそ吾等からいえば大変な年である。という事は吾等の唱導する処の夜の世界が昼の世界に転換する、その節に当るからである。之はどういう意味かというと、今年を契機として世界は一大転換の運命に逢着するのである。

己れの利害を本位とし  社会の公器性を失う  読売新聞へ再抗議(光 45号 昭和25年1月14日)

過般の読売新聞のデマ報道に対し、同じく迷惑をこうむった宗熱海市長と併行、本教でも独自の立場をもって読売新聞社編集責任者に対し、該誤報記事の正誤を申し込んだに対し、宗市長へは謝意を表したのにも拘かかわらず、本教団に対してはなんらの誠意をも披瀝ひれきせず、どこ迄も頬冠りの無責任な態度を持しているので本教ではやむなく同社に対し次の如き再抗議文を発送、同紙の新聞道に立脚せる紳士的態度の表明方を要請した。

宗教と自由(光45号 昭和25年1月14日)

今日迄の宗教をみると、宗教には殆んど自由がないといってもいい、其の多くは厳重なる戒律に縛られて身動きも出来ない位で、之が宗教本来の姿と思われて来た、そういうのを深く検討してみると全く信仰地獄の観がある

農業の新発見について(光45号 昭和25年1月14日)

農業は人体と同様で飽迄も自然でなければならないに拘かかわらず、人為的方法に意を用いたがる、右の二倍増産も実は無肥料による効果の方が多い事はいう迄もない、肥料迷信に罹った人の眼からみれば肥料なしの増産は電力によるからだと誤認したもの

自殺者の無責任(光45号 昭和25年1月14日) 

自殺行為は無責任極まるものであり、卑怯ひきょう者であるという事を強調し、聊いささかの讃辞など与えないよう特にジャーナリスト諸君に警告したいのである、本来宗教的からいえば死人に鞭打つ事は宜よろしくない事ではあるが、今後出るであろう自殺者を未然に防ぐ意味から、敢あえて自殺の不可を注意したのであるから、死者の霊も又満足すると思うからである。

低能児は治る(光45号 昭和25年1月14日)

右の理によって低能を治すには、先ず鼻から呼吸が出来るようにする、それには鼻孔を塞ぐ原因である前頭内の毒素を排除させる事である、しかし原因が判ったとしても、毒素を排除する方法が見つからなければ何にもならないが、医学に於ては毒素排除などは絶対不可能であるから、前述の如く次善的方法を採らざるを得ないのである、しかるにわが神医学はその方法が可能である

寸鉄(光45号 25年1月14日)

迷信を迷信する迷信を知らせる吾等を、迷信と思う迷信が本当の迷信であるんである

寸鉄 (光44号 昭和25年1月7日)

神様が、少し大きな事をし始めると、虫ケラ共が騒ぐ事、騒ぐ事、恰度ちょうど蟻の中へ煙草の吸殻を落したように

カンカン先生  (光44号 昭和25年1月7日)

私が大本教入信後間もなく先輩者で指導者として仰いでいた先生があった、この先生は小乗信仰のモデルのような人で信仰の窮屈な事到底ついてはゆけない程であった

憐むべき現代人 (光44号 昭和25年1月7日)

之等も実に間違っている、全く学理に捉われた自然無視の謬説びゅうせつである、何となれば皮は実実よりも不味まずいのは何を物語っているのであろうか、全く皮は喰う物ではない事を神が示しているのであるから実を食うのが本当だ、とすれば実に結構な話ではないか、こんな判り切った事まで判らなくなった医学の逆進歩には困ったものである。

恐怖を除く (光44号 昭和25年1月7日)

三大恐怖の解決こそ人類に与えられたる一大課題である、実に今日迄の人類はあまりにも苦悩の絶間ない世界であった、この世に確かに神がありとしたら神の大愛はこの様な世界をそう永く許容し給う筈はない。

本教を認識せよ(光44号 昭和25年1月7日)

よく本教に対し疑惑云々うんぬんと謂いわれるが、これ等は何の疑惑かさっぱり判らない、もし金銭上の疑惑とすれば前述の如くであるから一点の不審はあるまい
お蔭話

黙っては居られない(栄光113号 昭和26年7月18日) 《お陰話》まちまちな医診よりも信頼すべき浄霊 論より証拠治ればいい

危く結核の宣告を下される前に、私は御教えと御力とにより救われました訳です、何とも有難い次第であると思いました。
栄光

憎まれる勿れ(栄光113号 昭和26年7月18日)

 私は、人を憎むなという事を、かいた事があるが、それと共に憎まれる事もいけないのである、というのは憎まれると、どうしても相手の怨み、嫉妬、報復等の悪念が霊線を通じて来る、それが邪魔をして、常に不快感がまつわり、晴々としないから、仕事も巧くゆかないようになり、幸運を妨げられるという訳だから大いに注意すべきである
栄光

再びベルグソンに就て(栄光113号 昭和26年7月18日)

ベルグソンの所謂刹那いわゆるせつなの吾にならないからで、勿論それを意識しないからでもあろう。彼の説によれば人間は誰でも物心がつき始めると、色々な事を聞いたり、伝説や既成学問を詰め込まれたりするので、一人前になる迄には、それが棒のようなものになって心の中に出来て了しまう。だから棒以外の説を聞いても、其その棒が邪魔をして想念の中へ其まま入らない、だから想念の中が空ッポなら、苦もなく入るから直ぐ判る訳で、よく白紙になれなどと曰いわれるが全く其通りである
栄光

地上天国の構想(栄光113号 昭和26年7月18日)

地上天国の基礎条件である天然の風景は固より、花咲く樹木や、種々な緑樹、草花等の色彩美もそうだが、巌石、渓流、池等一つ一つのそれ等自然の持味の美を、最大限に発揮させると共に、凡ての調和に意を用い、渾然たる大自然の芸術品を造ろうと企図しているのである。
栄光

東洋美術雑観(1) (栄光166号 昭和27年7月23日)

そこで一般的に見て興味もあり、一通りの鑑賞眼を得られればいいという程度にかいたつもりであるから、之から美術の門に入ろうとする人の参考になるとしたら幸いである。
お蔭話

眼病もこの通り治る(栄光166号 昭和27年7月23日) 《お陰話》御浄霊により眼病を癒され晴れて再び夫のもとへ

全く迷信医学が膏肓こうこうに入っているからであろう。遠慮なくいえば、現代人特に智識階級の人などは、文化的丁髷ちょんまげというより外に言葉はないのである。