御論文

栄光

医学断片集(二)、(三)、(四)、(五)(栄光147号,148号,149号,150号昭和27年3月)

赤痢の真の原因を教えて上げようと思うのである。それは薬剤を体内に入れると薬毒で血が濁る。処が現代人は頭脳を酷使するから、其毒血は頭脳へ集溜し固結する。すると浄化作用が起って、発熱と共に液体化した毒血は、下降して腸に集中し、肛門から出るのであるから、放っておけば自然に治り、予後は頭脳は明晰となり健康は増すのであるから実に結構なものであり、生命には何等危険はない
栄光

神霊医学断片集(一)浄霊の急所(栄光145号 昭和27年2月27日) 

病気というものの苦痛は、其元があり急所があるのだから、そこを発見しなければならないが、それを知らない医学は、只苦痛の個所だけを治そうとするので仲々治らず、治っても一時的で本当に治らないのであるから、右の意味を教えてやりたいと思うのである
地上天国

浄霊と幸福(地上天国34号 昭和27年3月25日)

人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。というのは之が神の天則であって霊主体従の法則も厳として冒す事が出来ないからである。故に幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、ここに浄霊の大いなる意義があるのである
栄光

舌に代えて*山陽地方(栄光148号 昭和27年3月19日)

愈々幸福に満ちた世界を御造りになる時期が来たのであります。そうして其構想たるや今迄の物質文化の面だけであった世界を、今度は精神文化の面をも急速に向上させ、両々相俟って愈々地上天国が出来るのであります。之について今一つの知らねばならない事は、今迄無神思想が蔓延はびこっていたので、之は物質文化を発達させんが為の或期間であったのが、之が打ち切りになって有神思想になるのであります。つまり無神有神の入れ換えになるのであります
栄光

神様が発展の調節(栄光147号 昭和27年3月12日)

本教は地上天国を造るのであるから、何よりも先ず自分一家が天国にならなければならない。それには先ず自分自身の心が天国になる事で、心の天国とは心に苦悩のない状態である。という訳で焦るのも苦悩なら、思うようにならないと煩悶する悩みも地獄であるから、少なくとも苦悩から脱却する事である。それには感謝によって苦悩を打ち消すのが一番いい方法で、つまり心の中に地獄を作らない事である
栄光

体内の入浴(栄光147号 昭和27年3月12日)

薬毒は体内へ入ると大部分は残って了い、何年、何十年経っても外へ出ないで、体内各局所に固まって了うのである。それに清潔作用が起る。それが風邪であるから、其儘放ってをけば必ず治るものを、態々わざわざ薬で拗こじらし余病を作ったり、悪化さしたりして、命迄もフイにする
救世

日本人の依存性(救世55号 昭和25年3月25日) 

この際国民一般から依存心を思いきって除く以外、最善の方法はあるまい事を警告したいのである。
救世

近頃智能犯の増加(救世52号 昭和25年3月4日)

宗教哲学の如き一部の人にだけ理解されて、大衆には理解出来ないようなものでは実際の役に立たない、どうしても奇蹟によって見えざる神の存在を認識させ得る宗教でなくては意義ない事を知るであろう。
救世

安心立命(救世52号 昭和25年3月4日)

本教に於ては階級の如何を問はず、全人類を救うのが目的であるから、現当利益は固もとより、宏遠なる理論も大衆に判り易く説くので信者は満足し、真に安心立命を得らるる
お蔭話

種子について(栄光146号昭和27年3月5日)*お陰話

自然栽培の場合、種子の無肥毒が重要であるのは、信者はよく知っているであろうが、中には初めて試作する場合、それにあまり重きを置かない人もあるようだから、大いに注意して貰いたいのである。そこで出来るだけ肥毒のない種子を選ぶ事
栄光

奇蹟と宗教(栄光146号昭和27年3月5日)

本教に於ては宗教理論としての前人未発の哲学、科学、神学等の新解釈は固より現代文化の欠陥を指摘し、新しい文化のあり方を教え新文明世界創造の指針を示しているので、寧ろ宗教以上の宗教といってもよかろう。
栄光

社会事業と宗教事業(栄光146号昭和27年3月5日)

本教に限って如何に膨大となっても、病院などは決して作らない事を明言する。この言葉は現代人が聞いたら、大いに吃驚するであろうが、言う迄もなく本教の治病力は医学よりも断然上であるからで、私が医学革命などと常に口にするのも、そういう理由がある
栄光

運命は自由に作れる (栄光145号 昭和27年2月27日)

私は運命は誰でも、自由自在に変えられるという事を教えようと思う。というのは元来運命は人間が作るように出来ているもので、この真相が分ったなら、このの世の中は悲観処か大いに楽観していいのである。
栄光

依頼心を去れ (栄光145号 昭和27年2月27日)

之も神様は都合よくして下さるに違いないと安心しているような訳で、寧ろ一種の客観的興味さえ湧くのである。之では依頼心を去れなどと言えた義理ではないが、其点相手は人間と異い神様だから、大いに楽観しているのである
地上天国

本教と文化革命 (地上天国33号 昭和27年2月25日)

只宗教家として出来る限り人類を救いたい、それが自分の天からの使命であると思ったのである。処が其仕事が漸次進むに従い、右のような大任を負わされていた事がハッキリ分ったのである。それと共に驚くべき奇蹟が続出するに従って、ここに私は一大決意をせざるを得なくなった。其最も大いなる奇蹟はこの大偉業が主の神によって、何万、何十万、否何百万年以前から、周到なる準備をされていた事である
救世

世界救世(メシヤ)教教義 (救世53号 昭和25年3月11日) 再掲

抑々、世界の創造主たる主の大神(ヱホバ)は、此地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行はせ給いつつある事を吾等は信ずるのである
地上天国

天国予言の具体化(地上天国14号 昭和25年3月20日)

何となれば『聖書』の予言も、本教がそれを具体化する事も、神ヱホバが人類愛の御心によって理想世界の建設の為、時に応じて選ばれたる人間を、自由自在に駆使せられるからである。
地上天国

何故救世(メシヤ)教となった乎(地上天国14号 昭和25年3月20日)

救世の名こそ最も相応しいが、救世教では漢字である以上、東洋的で面白くない。そこでメシヤの振仮名を附けたので、之によって東洋も西洋も合せて世界的という訳である。特にメシヤの言葉はキリストに相通じ、文化民族憧憬の名称たるに於てをやでもある
第七篇 『基仏と観音教』

序文(自観叢書第七篇『基仏と観音教』昭和24年10月25日) 

基仏の二大宗教を通じて本教を観る時、本教と時代との重要意味も判ると共に、真のその価値を見出し得るであろう。
栄光

医療と浄霊(栄光144号 昭和27年2月20日)《お陰話》

翌日より病院を止めてみました。ところが驚いた事には、何という有難さでございましょうか、毎日毎日続いていた頭痛もよくなり、ぼんやりとした気拝も夢から覚めた様な気持でございました。
栄光

火事と浄霊(栄光144号 昭和27年2月20日)

御浄霊をするや忽ち風向が変り、助かったというお蔭話はよくあるが、之はどういう訳かというと、こうである。即ち火事というものは火の浄化作用であって、物質に穢れが溜っていると其霊も曇っているから、之に火が移り易くなる。そこで浄霊をすると其曇りが消えるから、焼くべき材料が無くなり、火は方向転換する
栄光

悪人をひねる(栄光144号 昭和27年2月20日)

悪人は食えない奴と相場は決っているようだが、実は私は其食えない奴よりも一倍も二倍も食えない人間と思っている。それが真の善人であり、之でなくては悪い世の中を善くする事は出来ないのである。という訳で私は世の中の悪人という悪人は、片ッ端からひねる方針にしている。之が生きた宗教家の在り方と思うからである
栄光

私の美術修業(栄光144号 昭和27年2月20日)

そうして面白い事には、今迄の経験によると、恰度ちょうど一種類一年位で卒業するようになっている。処が普通人では二十年、三十年も掛かるのを、私は一年位で同じ程度の修業が出来て了うので、最初私を教えた人達が、反対に私から教わるようになって了う。全く不思議である
お蔭話

龍神はある?(栄光143号 昭和27年2月13日)《お陰話》

本教は龍神というものは、この世の中に確かに存在しているという事を以前から唱えているが、今の人は仲々信じられない。まず昔蒙昧もうまい時代の産物位にしか思っていないが、之も無理はない。何しろ話だけで、目に見えないから致し方なかった。処が本教信者...
栄光

手術は野蛮?(栄光143号 昭和27年2月13日)

本教の浄霊法たるや、溜結せる毒薬だけを排除し、元通りに治るのであるから、之こそ最も進歩した文化的医学といえよう
栄光

本教に迷信はない (栄光143号 昭和27年2月13日)

何しろ生れながらにして、唯物教育を散々叩き込まれた結果、無神思想になり切っているからで、いつも言う通り野蛮人が空気は見えないから、無いというのと同様で、何と未開人的ではなかろうか。従ってどうしてもこの無神迷信を打破し、再教育をする事こそ、文化向上の最緊要事であって、それより外に真の文明世界実現の方法は、決してあり得ないのである。
お蔭話

生命の継ぎ足し (栄光142号 昭和27年2月6日)《お陰話》

この人も寿命が来たので、一旦死んで霊界へ往ったが、信仰の御蔭によって天国迄行かれ、天国の状態を見せて貰ったが、本人の信仰と周囲の人達の誠により、神様から一命を賜わったのである
東方の光

全人類待望の炬光  大聖観音力の顕現  (『東方の光』3号昭和10年2月23日)

併而あわせて仏説の開扉     古来仏誕の国、印度に於いて面白い伝説がある。 それは、三千年経つと憂曇華うどんげの花が咲き、其の時東方に転輪菩薩が現われ、此の土をして極楽安養浄土に救わるると謂う事である。然るに、其の転輪菩薩とは如何なる御方...
第四篇「奇跡物語」

黄泉比良坂の戦(自観叢書第四篇『奇蹟物語』昭和24年10月5日)再掲

この標題について、時々たずねられるから概略解説してみよう。これはもちろん古事記にあるものでそれを如実に私が体験した経緯をかくのである。
第四篇「奇跡物語」

霊写真(自観叢書第四篇『奇蹟物語』昭和24年10月5日)  

昭和三年二月の四日の節分の日、それまで従事していた仕事を全部放擲し信仰生活に入った記念日でもある。勿論神示によって私の使命を覚り、幾多の奇蹟によって確信を得たからで、全身全霊を打込まざるを得ない事になったからである。この時から昭和九年五月一日東京市麹町区平河町に一小家屋を借り民間治療所を開業する迄六年三ケ月の間、凡有あらゆる霊的研究と相俟って神幽現三界の実相を把握し、人間の病気と健康に関する一大発見等によって、神霊治療こそ、病無き世界を出現し得べき絶対的方法である確信を得たからである。処がこの年一つの大奇蹟が顕われた
第四篇「奇跡物語」

入信後の神懸り (自観叢書第四篇『奇跡物語』昭和二十四年十月五日)再掲

忘れもしない大正十五年即ち昭和元年十二月或夜十二時頃、未だ嘗て経験した事のない不思議な感じが心に起った。それは何ともいえない壮快感を催すと共に、何かしら喋舌らずには居られない気がする。止めようとしても止められない、口を突いて出てくる力はどうしようもない。
第四篇「奇跡物語」

本教救いの特異性(自観叢書第四篇『奇蹟物語』昭和24年10月5日) 

本教の使命は地獄で苦しんでいる人達を、天国へ救うので、それによって社会を天国化そうとするのである。この意味に於て、人を天国へ救うには、先ず自分が天国に上って天国人となり、大衆を救い上げるのである。
第四篇「奇跡物語」

私の告白(自観叢書第四篇『奇蹟物語』昭和24年10月5日)

昭和元年から観音様は始終私の肉体に懸られ、私に種々な事を教えられ、命じられ、自由自在に私の肉体を使われるのである。全く私を機関として一切衆生を救わせ給うのである
第四篇「奇跡物語」

観世音菩薩と私(自観叢書第四篇『奇蹟物語』昭和24年10月5日)

観世音菩薩と私との因縁について皆知りたがっているから、ここに開陳する事にする
第四篇「奇跡物語」

『奇蹟物語』序文(自観叢書第四篇 昭和24年10月5日)

本教の出生は日未だ浅いが、実は私が企画したものでは全然ない。全く観世音菩薩が時期到来によって、因縁ある私の肉体を行使され始めたのであるから、実は菩薩御自身が開教されたものである
栄光

罪の因は薬 (栄光142号 昭和27年2月6日)

罪と薬と関係あるなどとは、テンデ夢にも思えないからである。処が事実大いにあるのだから、不思議も不思議、奇想天外きそうてんがいといってもいい
栄光

医学と浄霊(栄光142号 昭和27年2月6日)

其治病効果たるや、最初にもかいた通り全然逆であるのは、医学で見離した病人がドシドシ治ってゆく、全く二十世紀の奇蹟と言うより外言葉はない。
第一篇『結核と神霊療法』

結核と神霊科学(自観叢書第1篇 『結核と神霊療法』 昭和24年6月25日発行)

今日顕微鏡で見えない細菌を濾過ろか性といっているが、この濾過性よりも何百万倍否何千万倍位極微なる神霊微粒子の存在が明かになっていないからで、将来顕微鏡科学が進歩の極に達した時初めてこの神霊微粒子を発見さるるので、是に到って初めて宗教と科学の一致が如実に実現さるるのである。
第一篇『結核と神霊療法』

結核は治る 結論(自観叢書第1篇 結核と『神霊療法』 昭和24年6月25日発行)

真理を発見し、病なき世界たらしむる事の可能である事の確信を得た以上、黙止し能わざるに至ったのである。そうして永い人類史上にも全然見当らない、私の仕事というものを客観する時、神は私をして人間が病苦から解放さるる時来ったことを示すと共に、それを遂行すべき大いなる力を与え給うたのである。
第一篇『結核と神霊療法』

結核は治る 結核の原因(自観叢書第1篇『結核と神霊療法』昭和24年6月25日発行)

 右の如き症状は、緩慢かんまんなる毒素排除作用であるから、放任しておけば殆んど治癒するのであるが、病理不明の医学は遮二無二浄化停止を行う。其方法は何人も知る通り絶対安静を金科玉条とする。安静は運動停止であるから、この位衰弱させるものはない