御論文

栄光

私の考え方(栄光162号昭和27年6月25日) 

私は仕事に固着する事を嫌い、それからそれへと転換して行く、そうすると気持もよく、面白く仕事が出来るから頭脳の働きもいいのである。とはいうものの其人の境遇によってはそうもゆかないから、右の理をよく弁わきまえて、臨機応変に行やってゆけば、余程有利であるという事を教えた迄である。
栄光

赤痢流行に就いて(栄光162号昭和27年6月25日)

之も私は以前から説いている如く霊界に於ては夜の世界から、昼の世界に転換するにつれて段々明るくなり、火素も増えるから、浄化は益々旺盛となる。其表われが今年の如く今迄にない赤痢流行となったのであって、まだまだ斯んな生易しい事では済まされないから、覚悟しなくてはならない。
お蔭話

唯物医学と心霊医学 (栄光161号昭和27年6月18日) お陰話「お位牌様も家族の一員」

従って現代医学は一日も早く革命されなければ、如何に多くの人間が不幸に陥るか、多言を要しないのである
栄光

現代医学に対する哲学的考察(栄光161号昭和27年6月18日)

二十世紀の今日之が出現したのであるから大問題である。それは言わずと知れた我メシヤ教の生誕であって、今いう幸運の鍵は確実に本教は握っているのである。従って本教が世界に拡がるに従い、病人は漸次減少し、其結果人間の寿齢は百歳以上になるのは当然である
栄光

結核半減記念祝いについて(栄光161号昭和27年6月18日)

本教浄霊は、保有しているだけの毒素を溶かして排泄させるのであるから、真の健康者となるから、之程素晴しい福音はないであろう。従って当局も医家も之を知ったなら、私情や私利を度外し、一日も早く吾々の仕事に参加すべきで、之こそ最も賢明であり、医学者否文化人としての真のあり方であろう
未発表

私と映画(未発表『私物語』昭和27年執筆)

私の映画の好きな事は、信者はよく知っているが、何しろ今でも隔日には必ず観る事にしている。そこで私が映画に親しむようになった最初からの経路をかいてみる
未発表

無信仰時代Ⅱ(未発表『私物語』昭和27年執筆)

以上の事を今日考えてみると、神は私の使命に対し、そういう事業に手を出してはいけないとして、止められた事はよく分るのである。
未発表

無信仰時代Ⅰ(未発表『私物語』昭和27年執筆)

 この時の私も全然無信仰で、唯物主義のカンカンでありながら、丸で信仰者のような考え方なんだから、表面は無信仰でも、肚の底はすでに信仰者になっていた訳である。
未発表

私は神か人か(未発表『私物語』昭和27年執筆)

何しろ驚くべき奇蹟が次から次へと出て来るので、ここに心機一転百八十度の転換となったのは勿論、日の経つに従い益々奇蹟続出、ついには私の過去、現在、未来にわたる運命についての霊的啓示をも受けると共に、自分は超人的力を与えられ、人類救済の大使命を荷になう事が判然としたのである。そうしてその頃洵まことに不思議な現象と思ったのは、偉大なる何者かが私を自由自在に操あやつり、一歩一歩神の世界の実在を、奇蹟をもって会得えとくさせた事で、その際込上げて来る歓喜をどうする事も出来なかった程である。この気持たるや幽幻至妙言葉では現わせない心境であった。しかも相変らず奇蹟続出で、興味津々しんしんたるものがあった。一日の内に何度心が躍おどったかは分らない。その中での最も大きな奇蹟は、大正天皇崩御ほうぎょの年、すなわち大正十五年十二月の事であった
未発表

私の神秘(未発表『私物語』昭和27年執筆)

私はいつも思っている事は、私程不思議な人間は世界肇はじまって以来一人もない事を信じている。実に何から何まで不思議だ。自分でさえそう思っているのだから、他の人としたら私という者の実体を想像してみても、結局群盲的であろう。というのは神秘性が余りに多いからである。ところが面白い事には人間の意欲の中で、最も興味を惹ひくものとしては、何といっても神秘性であろう
未発表

『私物語』序文 (未発表 昭和27年執筆)

私というものの一切を、縦横無尽に晒さらけ出し、思いのまますべてを記かいてみたいからである。そうして文中不可解な点もあるだろうし、虚々実々、大小、明暗、有限無限等々で、興味津々しんしんたるものがあるであろうから、味わいつつ人生を覚り得ると共に、揺がさる魂の持主となるのは断じて間違いないと思うのである。
栄光

書について(栄光111号昭和26年7月4日)

 元来、書とは昔からよく言われている通り、その人の人格を筆によって表現するものであるから、偉人や高僧知識等のかいたものを尊しとされている、面白い事には茶道と書とは、切っても切れない関係のある
栄光

一の世界(栄光111号昭和26年7月4日)

何ぞ知らん、この無とされて来た三分の一の霊界こそ、実は二と三を二つ合せたよりも重要な、基本的力の中心であるから、これを無視しては完全な文明は生れるはずはないのである。何よりも二つの文化が之程発達したに拘かかわらず、人類唯一の欲求である幸福が、それに伴わないのがよくそれを示している。従って今この矛盾の根本を充分検討してみると、これには深い理由のある事を発見するのである。というのはもし人類が、初めから一の霊界のある事を知ったとしたら、物質文明は今日のごとく、素晴しい発達を遂げ得なかったに違いない。何となれば霊界を無視したればこそ、無神思想が生れ、その思想から悪が発生し、その結果善と悪との闘争となり、人類は苦悩に苛さいなまれつつ、ついに唯物文化の発達を余儀なくさせられたからである。これを深く考えれば、全く深甚なる神の経綸でなくて何であろう。
栄光

慢心取り違い(栄光111号昭和26年7月4日) 

何時いつしか最初の神様のお蔭で治ったという事が忘れ勝となり、自分にももしかしたら偉い点があるのではないかと思う人もある、処がこれが立派な慢心であって、この時が最も危険期であるから、大いに警戒しなければならない、というのは考え方が逆になるからである、なぜかと言えば、私が常に注意する通り、力を抜く程いいとしているのはこの点で、即ち力とは人間力であるから、人間力を抜く程いい訳である、この理によって慢心するとどうも人間力が加わりたがる、何よりもそうなると浄霊の効き目が薄くなる
お蔭話

明日では遅すぎる(栄光160号 昭和27年6月11日)

人の死なんとするや……それではもう遅すぎるのです。明日ですら遅すぎるかも知れません。 元気なうちに、感ずるところがあったらすぐ、御守りも戴きましょう。神様へも御縋りする事です。その事が出来なかったばっかりに不幸に打ちひしがれたまま、最後の願いも達せない間に死んで行った人が、ここにあるのです。良く考えてあげて下さい。
栄光

美術館出来るまで(栄光160号 昭和27年6月11日)

私は下賎げせんから出た点で、之も彌勒下生みろくげしょうの意味と思えば肯ける筈である。又今一つ言いたい事は太子は釈尊に帰依して、仏教弘道に当られたのであるが、私は釈尊を私より下にみている、というのは釈尊は二千六百年以前、已に今度の私の救世の大業に対する準備的役割をされたからである。以上によって私と太子との関係も、美術に力を注いでいる事も大体分ったであろうが、今一つの重要な事は、主神すしんの御目的である病貧争絶無の地上天国ともなれば芸術至上の世界となるからである。
栄光

米国の医学迷信 (栄光159号 昭和27年6月4日)

米国に向っても大いに宣教する必要があろう。いつかも言った通り、米国は緯よこの文化の中心であり、日本は経たての文化の中心であるから本教の活動によって経緯結んだ真の十字形文化を生む事になるのであるが、最早其時期が近づきつつあるのを看取されるのである。勿論神様の御経綸もそうなっているので、之から漸次目立つようになるであろう。
栄光

米国通信(栄光159号 昭和27(1952)年6月4日)

御道は最初の抵抗を破り、一定の段階へ達すれば、後は破竹の勢いで広まるのではないかと存じます。アメリカ本土に教会ないし支部が置かれ、先生の言われるごとくジリジリと進めば割に短期間で御発展疑いなしと感じました。
栄光

宇宙は地球以外に生物なし(栄光159号 昭和27年6月4日) 

以上の理によって現在学者が誇りとしている天文学なども、先ず原始時代に毛の生えたものと思えばいいので、全く唯物科学ではこの謎を解くなどは痴人の夢である。処がいつもいう通り、現代科学は独り天文学ばかりではない。医学も農業も凡ゆる文化も右と同様の程度であるから、其盲点を明かにして科学のレベルを引上げるべく、私は現在骨を折っているのである。
栄光

世界的迷信としての現代医学(栄光159号 昭和27年6月4日)

それに引換え本教浄霊によれば、それしきの病気などは簡単に治るのみか、そんな手数も要らず、苦しい思いもせずして安心しながら全治出来ると共に、再発の憂いもないのだから、到底比較にならない程の異いさである。従って本教の全快者の驚きは大変であると共に、絶対的信念を得て百八十度の転換となり、医学を棄てて了うのである。勿論病気になっても浄霊一本で済むばかりか、家族の誰でも信者になりさえすれば浄霊が出来るのだから、之程有難い事はあるまい。たとえ夜が夜中でも急の間に合うのだから、其安心感たるや到底言葉では表わせない程である。
栄光

日本は文明か野蛮か(栄光159号 昭和27年6月4日)

真の文明時代とは之から出来る世界であって、この時代こそ全人類の待望する平和幸福な世界である。だが喜ぶべし、其時代は已に目前に迫ったのである。それは其時代を造る役目として生れたのが我がメシヤ教であるから、本教の今行っている事業を見ればよく分る。其第一着手としては、文明の裏に潜んでいる幾多の誤謬を指摘し、暴露すると共に、真の文明というものを教えているのである。故にそれを信じさせる為の手段として、神は旺んに私に奇蹟を行わせ、神の実在を信じさせているのである。こうみてくると本教は既成観念で考えるような、あり来たりの宗教ではなく、全く新しい文明世界の創造者であり、世界歴史大転換期に於ける神の一大経綸の担当者である事が分るであろう
世界救世教奇跡集

恐るべき医学迷信(世界救世教奇蹟集 昭和28年9月10日)

全く根強い医学迷信に陥っているからで、恐るべきは現在の医学迷信である。この事実にみて忌憚なく言えば、今日の時代は外容は文化的であっても、結果から言えば野蛮蒙昧時代といっても過言ではあるまい。従ってこの迷信の為に現在は固より、今後も如何に多くの病人が犠牲にされるかは到底計り知れないものがあろう。
栄光

医学断片集㈥、㈦、㈧、㈨、㈩高熱/医療/薬毒/便秘(『栄光』昭和27年)

八年間の盲が偶然治って、非常に珍らしいという放送もあって、原因は硫酸がかかって盲目になったというのだが、凡すべて病気ではなく、そういう災害的のものは放っておいても、年月さえ経てば自然に治るものである。従ってそれを珍らしいというのは、全く医学の未発達である事を示しているのである。
栄光

癌病について (栄光158号 昭和27年5月28日)

之は甚だ簡単な原因で、肉食の毒素が溜るのである。この病気が若人になく、中年以後に発るにみても分るであろう。従ってこの病気を免れるには、野菜を多く食えばいい。以前もかいた事があるが、人間は肉と野菜と半々位が恰度ちょうどいいのである。この理由はどういう訳かというと肉食は陽性食物であり、菜食は陰性食物であるから、偏かたよると天理に外れる事になる
栄光

舌に代えて (栄光158号 昭和27年5月28日)

ここで一寸ちょっと瞳について説明を致しますが、之も言霊げんれい上ヒトミとは火と水の事で、日月であり、日月は眼に相応します。又火は経に燃え、水は緯に流れるから、つまり経緯たてよこであり、この経緯が結ばれてこそ、両眼揃って完全な働きをするのであって、換言すれば経が精神文明で、緯が物質文明であるから、両文明が一致して、初めて天国世界が生れるのであります。つまり経が父で緯が母であるから、其結合によってミロクという立派な子が生れるのであります
地上天国

私の光 (地上天国36号 昭和27年5月25日)

智性の働く人なら或程度分らない筈はない。信仰的にいえば身魂相応にとれるのだから、この意味からいっても、信者は精々せいぜい身魂を磨き、曇りのないようにしておく事で、そうすれば正覚を得て私の力徳が分る
栄光

奈良美術行脚(栄光156号 昭和27年5月14日)  

そこで私が思った事は、この様に数ある古代仏教芸術を一堂に集めて、日本人にも外国人にも手軽に観られるようにしたら、どんなにか歓ぶであろうし、益する処大きいかを想像してみた事である。それと共に日本人が如何に古代から文化的に卓越せる民族であるかが充分認識されるであろう
栄光

唯物主義が悪人を作る (栄光155号 昭和27年5月7日) 

この標題は少し厳しすぎるようだが、事実であるからやむを得ないのである。というのは、唯物主義即無神主義こそ、吾々からみれば最も危険な思想であるといっていい。ブチまけていえば、若しこの世の中に本当に神がないとしたら、私なども随分人に知れないよう...
栄光

自然農法の勝利(栄光163号 昭和27年7月2日)

兎もすれば私の説を軽視し勝ちで、自分の考えが幾分でも混る為、それだけ成績に影響を及ぼすのである。例えば水田は藁を細かく切れといってあるのに、非常に長く切ったり、其土地の習慣上堆肥といっても、糞尿とか馬糞などを交ぜたがる。又指導者の中にも自分の考えが多少混る事もよくある。といったように純粋堆肥を使わない人も幾らかあるようだが、充分注意されたいのである。
栄光

大いに注意すべき事(栄光156号 昭和27年5月14日) 

之は御守に限らず、凡ての文字がそうである。というのは其上へ他の品物を載せると、霊的に大変な御無礼になるから必ず御気付けがある。何となれば一字々々に神霊が宿られているからである。その位の偉力がなければ、万民を救う事が出来る筈はないからで、つまり私の文字は生きているので、其つもりで扱うべきである
栄光

大乗愛(栄光166号 昭和27年7月23日)

単に愛といっても、小乗愛と大乗愛の区別のある事を、充分知らねばならない。そうして小乗愛の最も極端なのが、言う迄もなく自己愛で、次が血族愛、友人愛、団体愛、階級愛、国家愛、民族愛という順序になるが、ここ迄の愛は悉く小乗愛で、之は何程熱烈な愛で...
栄光

世界的丁髷時代(栄光155号 昭和27年5月7日) 

この文化的蒙昧を目醒めさせようとしては私は絶えず筆に口に、現在努力しつつあるのであるが何しろ長い間の根強い世界的迷信となっていることとて、容易な業ではない。恰度明治維新当時の丁髷連中を済度するのと同様で、今日はそれが世界的に押し拡がったのであるから、猶更始末が悪いのである。
栄光

神人合一(栄光155号 昭和27年5月7日) 

いつも言う通り私の腹には光の玉がある。之は或最高の神様の魂であるから、私の言動凡ては神様自身が、私を自由自在に動かしているのである。つまり神と人との区別がない訳で、之が真の神人合一なのである。
栄光

科学と芸術(栄光154号 昭和27年4月30日)

同じ芸術でも低いのになると、反って人間を下劣にし、堕落に導く危険さえあるので、之は警戒の要がある。そこでどうしても楽しみつつ、情操を高めるという高度の芸術でなくてはならない。処が口ではいうものの果して其様な機関があるかというと、外国はいざ知らず、日本に於ては其点洵まことに貧弱であるのは衆知の通りで、この意味に於て本教が地上天国と、それに附随する美術館を建設し、右の欠陥を補うべく現在実行しつつあるのである
地上天国

伊都能売の身魂(地上天国35号 昭和27年4月25日)再掲

成程信仰は精神的なもので、経たてであり、永久不変の真理であるから、曲げられないのはいいが、経綸の方はそうはゆかない。之は物質面であるから、時代相応に変遷するのが本当である。即ち精神物質両方の完全な働きで、即ちどこ迄も伊都能売式で行かなくてはならない
栄光

原爆恐るるに足らず(栄光153号 昭和27年4月23日)

私がいつも唱える処の霊体の真理である。言う迄もなく万有一切は霊と体との二原素から形成されているのが実相であるが、それについて特に知っておくべき重要事は、霊と物質との力の強弱である。それは体即ち物質の力よりも霊の力の方が、何倍或いは何百倍勝っているか判らない事実である。しかるに之が何故今日迄分らなかったかというと、近代文明の基本が唯物科学から出発している以上、不可視の霊の存在は到底信じ得られなかったからである。
栄光

浄化の言葉(栄光157号 昭和27年5月21日)

 本教は病気の事を浄化というが、之程いい言葉はあるまいと思う。それも嘘ではなく 本当でもあるからである。第一この言葉から受ける感じは、頗る気持がいいが、之に反し病とか病気とかいう言葉位気持の悪いものはあるまい
栄光

人を裁く勿れ(栄光157号 昭和27年5月21日)

其人こそ神様よりも人間の力の方を信ずるのだから、之程の慢心取違いはあるまい。というように我メシヤ教は最高の神様が、一切統轄なされているので、間違った人に対しては、神様は最初其人を覚らせるべく御気づけをされるが、それで覚らない時は命迄召上げられる事がよくある。
栄光

肥毒について(栄光151号 昭和27年4月9日) 

最初の中の見てくれの悪いのは、無論肥毒の残っている為であるから、そこを辛抱すれば、遂には最初から黄ばみなど少しもなく、青々とした有肥田に勝るとも劣らない姿になるが、之こそ全く肥毒が解消した為で、そうなって初めて五割以上の増産は間違いないのである。
栄光

力(栄光151号 昭和27年4月9日)

今言った処で到底信ずる事は出来ないし、神秘でもあるから、ホンの一部分だけ時に応じ、進むに従い発表するのである。之を要約すれば善言讃詞にある通りの世界を造ってゆくのである。特に一言いっておきたいのは、最大の争いである国と国との戦争であるが、之も私は時が来れば、一挙に無くす事が出来るだけの力も有もっているから、安心して貰いたいのである。