迷信

所謂、迷信の解剖  信仰は飽く迄冷静に(光9号昭和24年5月14日) 

本教を解剖してみる時、本教が行っている救の業は、言う処と行う結果とにいささかの矛盾がないばかりか、むしろ言う以上の良果を挙げている以上、迷信の言葉は当らない
御教え集5号 

御教え *農業/悪/医学(御教え集5号 昭和26年12月11日➂)

「農業特集号」ですね。あれを出して、そうしてできるだけ日本中の農会とか新聞社ですね。国会議員だとか、そう言う方面に配ろうと思う。そしてできるだけ早く目を醒まさせなかったら、下手へたにまごつくと米が減産して来ます
第十二篇「自観説話集」

科学が迷信を作る (自観叢書第十二篇 自観説話集 昭和25年1月30日)

迷信ならざるものを迷信と断づる事も、一種の迷信である。故にジャーナリスト諸君に要望したいのは、迷信邪教に対しては大いに筆誅(ひっちゅう)するを可とするが、迷信邪教ならざるものを迷信邪教と誤認する事の危険を言いたいのである。それは文化の進歩の阻害者となるからである。
第十二篇「自観説話集」

理屈の迷信(自観叢書第十二篇 自観説話集 昭和25年1月30日)

今日、迷信という事を非難し軽蔑するが、これは考えものである。それが特にインテリ人に多いのも困った事実である。然らば迷信はいかなる原因によって発生するかを、明かにする必要があろう。先ず現在の人間生活を見る時、この世の中はあまりにも理屈に合わな...
生活

易学の将来、生年月は運勢・性格に影響するか等『教えの光』(2.天文、地文、易学、人事等の問題)昭和二十六年五月二十日

名前で運命が決まるとは言えない。大いに影響はあるが絶対ではない。善(よ)い名のつくのも悪い名のつくのも、その人の運勢によるのである。私など頼まれても、すらすらとつけられる時と、つけられない時がある。
栄光

迷信の定義 (栄光 七十四号 昭和二十五年十月十八日)

此様な訳で、絶対の迷信もなければ、絶対の正信もないのが真理であってみれば、先づ宗教でも他の如何なるものでも批判する場合迷信の分子よりも、正信の分子が多ければ多い程、価価ある訳であるから、充分炯眼(けいがん)を開いて誤りなきを期すべきである
信仰雑話

迷信邪教 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

今日新聞雑誌ラヂオ等、盛んに迷信邪教に瞞(ダマ)されるなという事を警告してゐるが、成程迷信邪教は昔から断えず輩出してゐるばかりか、今日は最も甚しいようである。然し全部が全部迷信邪教とはいわれまい。その中の幾分かは今日立派な宗教として残ってゐるからである
御講話など

御講話 昭和10(1935)年7月1日

いろんなことが間違いだらけなことがたくさんある。そういうことをたくさん知らせ、目をさまし、たしかな真理を行なう。あるいは本当のこと、本当の信仰、本当の生活ということの標準を示さなければならぬと思うのであります。