しばらく霊的な体験記が続きましたので、今回からちょっと不思議な体験をミニ体験記としてご紹介させていただこうと思っています。
私が、23歳で新設された木古内布教所の所長となって、経験した事例も幾つかご紹介してきましたが、本当に充実した日々でした。春には、募金活動も兼ねて松前城公園で花見をして、夏には、№5でご紹介した江良の信者さんとの交流も兼ねて海水浴に行き、秋には、近くの温泉に行き紅葉を見ながら温泉につかり、本当に楽しみながら御神業にお仕えすることができました。当然ながら、小さな布教所だったからできたことだと思っています。
感謝祭になると、地元木古内の信者さんは勿論のこと、隣町の知内町、そしてその隣の福島町、更には松前町(江良)や檜山管内の江差町、トラピスト修道院で有名な当別町などからご参拝に来られて、小さな布教所でしたが、大変な賑わいでした。
布教所がなかったころは、函館までご参拝に行っていた訳ですが、この地域の信者さんは、函館に行っても知り合いが少なく、参拝してもすぐ帰るという感じだったと思います。そもそも参拝に来られていたのかどうか。私の記憶では、余り見かけなかったように思っています。
当時は、一般的に布教員、代表世話人、世話人という組織構成でブロック制が敷かれていたように思いますが、トータルで100世帯前後の木古内布教所では、その制度も馴染まないので、世話人だけを選抜しました。地元木古内町に二人、東部方面に一人(華道山月のお花の先生)、江良及び檜山管内に一人と、計4人で世話人会を月二回開いて、時々、次期世話人候補もオブザーバーに加えて布教所としての取り組みを検討していました。また、信者さんは全員が、救いを求めてくる方々の世話人であるということを常に言っていましたので、いつ誰が世話人になってもいいような方針を徹底していました。
それまでは、函館布教所の地方ということで、信仰心はあっても、力を結集することができなかったと思います。木古内布教所という拠点ができたことによって、段々と熱気を帯びて、新しい信者さんが増えるたびに、更に活気が満ちていきました。布教所あるいは集会所という拠点があるのとないのとでは、大変な違いがあり、核が必要だと痛感した次第です。
その時の布教所は、勿論借家でしたが、いわゆる3DKで、御神前は6畳、続きの間が8畳と二畳ほどの廊下、その続きが茶の間で10畳ほどでした。そこに、4~50人の信者さんが参拝されるわけですから、当然ながら台所や玄関で参拝される方もいました。玄関は、一般家庭の如く一坪程度でしたから、備え付けの下駄箱を使っても、信者さんの靴は玄関に納まらずに、外にまであふれていました。
私は、支庁本部長にも相談して、地区本部に下駄箱の設置について稟議を上げましたが、却下されました。理由は分かりませんが、借家ということが却下の理由だったのかも知れません。いくら毎月コンスタントに入信者が許されていても、まだ学院を卒業したばかりの若造です。地区本部や本部には何の人脈もありません。私は、その時に思いました。30歳になったら、本部で御用を許されたい。そして人脈を作って、現場の信者さんが気持ちよく御用ができるようにしたい。私は、生涯布教師として、現場において悩み苦しんでいる人を救いたいと思っていましたが、その為にも、本部で一度は勤務して人脈を作っておくことが重要だと思いました。
しかし、そんなころに結婚して、№5に書いたひーちゃんの取り組みもあって、そのことはすっかり忘れていました。特に、結婚する頃に、地区本部長から、ある飲み会の席で、函館布教所の所長にならないかという打診を受けましたが、先輩方を差し置いて函館の所長になる訳にはいかないのでと、丁重にお断りをしたことがありました。この異動については、成果を上げていたために何度か打診がありましたが、結婚する時も、二人姉妹の長女なので、しばらくは木古内で御用をさせてくださいとお願いした次第です。
それから、1~2年して、あるとき地区本部長の夢を見ました。地区本部長が夢に出てきたのは初めてのことでしたが、全道の所長会のあとに私を本部長室に呼んで、「きみも、そろそろ異動してもいいんじゃないの。一度、大きな布教所で御用してみなさい。」と言われました。目が覚めてから、これは夢知らせだと思って妻に言いました。「多分その内に異動になると思う。函館は一度断っているので無いと思うので、帯広か岩見沢か、その辺りだと思う。」と伝えて、覚悟しておくように言いました。案の定、それからしばらくして、旭川へ副所長として異動するようにと言われました。
その時、私は27歳でしたが、旭川は道内では札幌に次ぐ二番目の規模の布教所でした。しかも札幌にはいくつかの布教所があったので、単独では道内で一番の規模だったと思っています。先輩方が大勢いる中で、しかも、後から知ったことですが、当時の所長がアル中でロレツが回らないということで、実質的には所長代理のような人事でした。ある意味、大変な抜擢人事でした。
年末の所長会が終わってから、私は、札幌から直行で旭川に向かいました。夜もまだ遅くない時間に布教所に着きましたが、誰一人出迎えてくれる人はいませんでした。その内に、私の声に気づいた人が対応してくれて、その晩は、布教所の奥の部屋で休むことができました。
次の日、私に用意されていたデスクは、布教専従の職員の末席でした。布教所には、二期先輩と同期で年上の二人が布教専従としていました。また兼業の資格者として二人のおばさんがいましたが、その方からその末席を使うように言われました。私も、「副所長として来たのに、この扱いは何だ!」と言いたい気持ちを抑えて、角が立たないように言われたままに従いました。その席を使うように言ったのは、兼業資格者の二人の中でも幅を利かせていた人でした。二期先輩も同期の専従者も、この二人の資格者には歯向かうことができなかったのでしょう。「旭川のことは、私たちが全て掌握しているのだから、学院を出たくらいで、偉そうなことを言ったら承知しないよ。」的な雰囲気がプンプンとしていました。
それでも、信者さんの中には、私を歓迎してくれる人たちがそれなりにいました。新年祭が終了してから、「先生、この後の予定はありますか?無かったらうちのブロックの新年会に来ませんか?」と誘ってくれて、右も左も分からない中で、誘われるまま付いて行ったことがありました。ところが、お店には入れたのですが、お店の人がいなくて、しばらくソファで爆睡して、気が付いた時には、信者さんの奥さんの膝枕でした。勿論、私が希望してのことではなくて、奥さんがソファにもたれて寝ていた私の横に座って、私を横にして膝の上に寝せたということのようです。目が覚めてビックリしましたが、皆さんとは、爆笑しながら仲良くすることができました。
赴任してから一ヶ月くらいした頃だと思いますが、MOA商事のパートをしていた人のご主人(某企業で所長だった人)が、布教所に来て事務所に入るなり、兼業資格者のおばさん方や事務職の人がいる前で、「あんた方は、何をやっているんだ。仮にも副所長で来た人を、末席に座らせておいて、それが信仰者のやることか。」と怒鳴りました。その一喝で、資格者のおばさん方も、そしてアル中の所長も何とかしなくてはと思ったのでしょう。所長が「私は、奥の部屋に行くので、君はここを使いなさい。」と言って、両方に引き出しのある大きなデスクと革張りの椅子を譲ってくれました。ちなみに、木古内では、玄関脇の6畳の部屋を寝室兼所長室兼面談室としていましたので、高校時代に使っていた座卓(文机)を、実家から送ってもらって使っていました。さすがに、その椅子に座った時は、偉くなった気分になりました。だからこそ、その椅子にはなるべく座らないようにしていました。
それから、一年後くらいあとに所長が交代しました。私が、教団浄化の中で、本部に出仕していた時のことです。大先輩のその所長とも、仲良く御用ができました。教団紛争が勃発してから、まだ間もないころでしたので、所長は布教所に居て内を固めることに専念して、私は、集会やその他外回りを中心に行うということで、役割分担も決めてやっていました。
丁度その頃、この教団紛争が海外でも大きな波紋を起こしていた時でしたので、全道所長会の時に、「浄化対策のために、ブラジルへ行ってくれる人がいたら有り難い。」という話があったので、元々海外布教を希望していた私は、家に帰ってから妻にそのことを話しました。妻も納得してくれたので、地区本部へブラジルでの対策を希望することを伝えました。ところが数日後に、所長から、「君は、ブラジル行きを希望したらしいが、私から逃げるのか。君は、将来性があるのだから、今は、対策に奔走するのではなく、私の下でしっかりと勉強して力を付けなさい。」と言われました。私は、先に所長に相談してから地区へ連絡すれば良かったと、順序が違ったことを反省しましたが、学院時代から希望していた海外布教の道は閉ざされました。
その数日後ことです。また、所長室に呼ばれて行ったのですが、「本部からのご指名で、7月26日に本部に来るようにということだ。少し長期になりそうなので、そのような準備をしていくように。」と言われました。ブラジル行きは叶わなかったので、旭川でしっかりやろうと思っていた矢先に、本部に来いという指示でした。
7月25日は、布教所の感謝祭があったので、前日の24日には、準備が全て終了してから、私の送別麻雀会を開いてくれました。勝敗はよく覚えていませんが、所長との最後の思い出でした。
そして7月26日、私は旭川空港から本部に向かって出発しました。30歳の誕生日の翌日のことでした。その時の飛行機の中で、ふと思い出しました。私は、以前木古内にいた時に、30歳になったら人脈作りのために、本部に行きたいと思っていたのが、今現実に、30歳になった翌日に本部に向かっている。私自身すっかり忘れていたことですが、この現実に気づいた時、本当にビックリしました。明主様は、自分が何気なく思ったことや、年月が経って本人すら忘れていることも、叶えてくださるのかという驚きでした。もしかしたら、この現実が先に用意されていて、木古内時代に夢知らせのようにふと思わされたのかも知れません。
いずれにしても、30歳になったら本部へ行きたいと思っていたことが、30歳の誕生日の翌日に叶うという、不思議な経験でした。そして、本部へ行ってからの経験は、更に不思議な経験でした。その中で、ミニ体験記の中でご紹介できる部分については、投稿しようと思っています。
本部に到着した私は、事務所3階の応接室に通されました。そこには、先着していた人もいましたが、総勢5名の私たちは、その日から外部の人に預けられることになりました。つまり、教団浄化(紛争)の中で、再建側が業務委託をしていた外部の人たちということです。その時の経験は、不思議というよりは過酷な経験でした。興味のある方は、近々出版が予定されている本を、是非ともご購読していただければ有り難いと存じます。
つまり、神人合一であり、メシヤとなられた明主様は、教団紛争が勃発することも、その後に外部の人たちに業務委託することも、全てをお見通しのうえで、正邪の戦いの経綸の中で采配を揮い、あらゆる対応の一つとして、私たちを本部に呼び寄せたのではないか。それが、私にとっての30歳という節目だったのではないかと思っています。
そして、その時からの経験が、それ以降の私を、つまり今の私を形づくったと言っても過言ではないと思っています。それほど大きな衝撃を受けた出会いでした。この出会いがなかったら、私は布教師として順調に成果が許されて、さらに大きな立場を許されていたことでしょう。もしかしたら、北海道地区本部長、もしくは他地区の本部長になっていたかも知れません。更には、教団の理事にもなっていたかも知れません。
ところが、この30歳の衝撃を岐路として、その後の私は、30年間一度も昇進することなく、つまり幹部になることもなく退職を迎えました。当時、権力を握っていた一部の大幹部が、画策していたことも伝え聞いていました。それほど、私にとっても教団にとっても、大きな出来事だったと言えるでしょう。
私は、つくづく思います。どんなに成果を上げて偉くなったとしても、所詮は世間知らずの普通の布教師が、革張りの椅子に偉そうに座っているに過ぎないと。それより、世間を知り、その厳しさを知り、また人情の有難さを知り、その中で自分に与えられた使命を自覚して、大きな視野と視点をもってご神業に奉仕することが、如何に大切であるかを教えていただいたと思います。世の中には裏がある。どんな組織にも、どんな人であってもそれなりの裏があり、教団の中にも裏があったということを知っただけでも、大きな学びでした。
その意味では、救世主である明主様が、何かしらのご神意をもって、私の30歳の誕生日の翌日に、外部の人たちと巡り合わせてくれたと思って、今もそのご神意を求めつつ生き、そして生かされていると思っています。
それ以降の私は、ふと思ったことも思わされたと思うようになりました。また、見たり聞いたりしたことも、見せられ聞かされたと思うようになり、全ては、魂の世界、霊の世界で起きたことが、現実の世界に移写されていると思えるようになりました。本当に、有難い経験でした。
by Mr.Right
【体験談Mr.Right】№16 30歳の誕生日の翌日に本部へ
