新規掲載

最後の審判(地上天国12号 昭和25年1月20日)  
キリストの火の洗霊は、いよいよ来らんとする最後の審判でなくてならない事になる。しかしながら水とは体的であり、火とは霊であるから、吾等が今行っている、霊を以て霊を浄める方法こそ、全く火の洗霊である。すると霊から体に移写するのであるから、火の洗霊が体的に如何に影響するか、之こそ空前の変異でなくてはならない。といっても危機は悪に対してのみ表われ、善には危機はない事を知らねばならない。
巻頭言(地上天国12号 昭和25年1月20日)  
愈いよいよ1950年、昭和二十五年の年になった。というだけならいつもの年と変りはないが、実は今年こそ吾等からいえば大変な年である。という事は吾等の唱導する処の夜の世界が昼の世界に転換する、その節に当るからである。之はどういう意味かというと、今年を契機として世界は一大転換の運命に逢着するのである。
【体験談Mr.Right】№25 登山電車での不思議なできごと
 私は、自分にどんな使命があるのか、明確に分かっている訳ではありませんが、何かの「型」としてさまざまな体験をさせていただいたと思っています。同時に、そのことを一人でも多くの方に伝えることが、今与えられている使命ではないかと受け止めています。
御教え *悪の発生と浄霊(御教え集12号 昭和27年7月27日) 
つまり人間に憑依している副守護神――動物霊がやるのだから、そこで悪を制限するには動物霊を弱める。動物霊を弱めるには霊の曇りの多い少い――曇りが多ければ、動物霊は根本的の悪のものですから悪をさせる。動物霊を或る程度抑えるには光です。光とは魂の光です。それには曇りを取らなければならない。だから悪の因というのは、結局霊の病気になる。つまり体の病気が毒血で、霊の病気が曇りです。ですから曇りをとるという事になる。浄霊するという事は、肉体の病気ばかりでなくて、霊の病気も一緒に取ってくれる。浄める訳です。ですから浄霊という。霊が浄まると副守護神が弱りますから――副守護神ばかりでなく、臨時に憑く霊もありますから、憑いても弱るから、その霊は悪い事をしない。
御教え *悪が分からなくては本当の事は分からない(御教え集12号 昭和27年7月26日) 
新薬で抑えられない程の浄化になったら、片っ端から肺病になってしまう。今肺病の原料を作ってますが――ヒドラジドなんか素晴しいものです。しかしそうなってからは皆メシヤ教に頭を下げて来るのです。もうそう長くないです。大分近寄って来てます。これが一番分かるのは、あなた方が浄霊しても段々効くでしょう。去年より今年、先月より今月と、ずっと早く治って来る。これは霊界で火素が増えて来た為です。つまり、火素が増えて来たという事は浄化が強くなったのです。
御教え *始終邪神との闘い/教団乗取策(御教え集12号 昭和27年7月25日)  
これは教団を乗っ取ろうとする陰謀の一団があった。陰謀の一団というと大袈裟だが、陰謀者があった。これが中々智恵があって、おまけに私は疥癬で、なんにも出来なかった。それで任かせきりであった為に、その隙に乗じて教団乗取策を講じて、それには私と渋井さんをまず追い出すという事が一番の狙いであった。
己れの利害を本位とし  社会の公器性を失う  読売新聞へ再抗議(光 45号 昭和25年1月14日)
過般の読売新聞のデマ報道に対し、同じく迷惑をこうむった宗熱海市長と併行、本教でも独自の立場をもって読売新聞社編集責任者に対し、該誤報記事の正誤を申し込んだに対し、宗市長へは謝意を表したのにも拘かかわらず、本教団に対してはなんらの誠意をも披瀝ひれきせず、どこ迄も頬冠りの無責任な態度を持しているので本教ではやむなく同社に対し次の如き再抗議文を発送、同紙の新聞道に立脚せる紳士的態度の表明方を要請した。
宗教と自由(光45号 昭和25年1月14日)
今日迄の宗教をみると、宗教には殆んど自由がないといってもいい、其の多くは厳重なる戒律に縛られて身動きも出来ない位で、之が宗教本来の姿と思われて来た、そういうのを深く検討してみると全く信仰地獄の観がある
農業の新発見について(光45号 昭和25年1月14日)
農業は人体と同様で飽迄も自然でなければならないに拘かかわらず、人為的方法に意を用いたがる、右の二倍増産も実は無肥料による効果の方が多い事はいう迄もない、肥料迷信に罹った人の眼からみれば肥料なしの増産は電力によるからだと誤認したもの
自殺者の無責任(光45号 昭和25年1月14日) 
自殺行為は無責任極まるものであり、卑怯ひきょう者であるという事を強調し、聊いささかの讃辞など与えないよう特にジャーナリスト諸君に警告したいのである、本来宗教的からいえば死人に鞭打つ事は宜よろしくない事ではあるが、今後出るであろう自殺者を未然に防ぐ意味から、敢あえて自殺の不可を注意したのであるから、死者の霊も又満足すると思うからである。

タイトルとURLをコピーしました