[みあと] 大正末期、岡田茂吉教祖がアルプス登山の中で訪れた上高地

大正池から焼岳をのぞむ

 大正の末頃、岡田茂吉教祖は、しきりに山登りをされたらしく、関東近辺の主な山には大抵登られたとのことです。何故それ程迄に山にいざなわれ、登られたのか・・・?

 「教祖がふたたび信仰に復帰し、神事を得て、やがて至高の境地へ上り詰めていくのがこの直後の昭和初年である事を思えば、これら一連の登山の背後には、神によって定められた深い仕組があったと見るべきであろう」と『東方の光』下巻には記されています。

 その中でも大掛かりなものが槍ヶ岳登山と奥日光から会津へ抜ける山旅だったようです。その事について教祖も詳しく記録を残されていたらしく、『東方の光』に紹介されています。

 今回、上高地に立ち寄ったので、登山好きの岡田茂吉教祖の一面を紹介させてもらうことにしました。今は観光客で大変な賑わいの上高地ですが、当時は充分整備もされておらず、また、装備も現代とは比べ物にならないと思われる中、教祖も大変な思いをして、槍ヶ岳登頂の途中から上高地へ下りられたようです。『東方の光』から一部引用させていただきます。

 上高地はかつて神垣内かみこ うち、あるいは神郷地かみこう ちとも書かれ、神にゆかりの深い土地であると伝えられている。アルプスの連山を目睫もくしょうかんに見て、その山懐やまふところ梓川あずさがわの清流が途中いくつもの湖沼こしょうを作りながら流れ下る風光の明媚さは、日本屈指の景勝の地と呼ばれるにふさわしい。

 焼岳やけだけ泥流でいりゅうを噴出して梓川をき止め、大正池を作ったのは大正4年(1915年)であるから、教祖が歩いた頃は、まだ噴火の後も生々しく、あちこちに枯木こぼくが白い幹や枝を晒していたことであろう。

 教祖は下山の途中で、雪渓せっけいに足を取られ、硬い雪の上をすべってあぶない思いをしている。それから急流にかかる丸木橋をはって渡るなどして、ようやく上高地にたどり着いたのであった。教祖は当時の印象を、次のように書いている。

「上高地は千古斧鉞せんこふえつを入れざる大森林で、山気 さんき身に迫り、見たこともない木や草が繁っているさまは全く人間界を遠く放れた別世界で、今にも白髪の仙人が忽然こつぜんと現われて来そうな気がする。」

 教祖が登った時期から時がたつと、上高地の優れた風光が全国に知れ渡るようになり、バスが通い始め、観光客がふえて、しだいに俗化が進んだが、当時はまだ原生林におおわれ、神秘幽玄の趣を留めていた。

『東方の光』下巻 p460〜

 今でこそ上高地へのアクセスは便利になり、老若男女に愛され、いつも観光客が絶えないようですが、案外立ち寄る人が少ないように思う大正池はいまだに神秘的な感じがしましたし、梓川の流れる水の色は、写真の撮り方が下手で表現できていませんが、それこそ澄んだ水色で勢いがあり、そちこちで水飛沫を上げながら勢いよく流れていました。できるものなら、是非、また訪れたいところです。

            八尾屋

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