昭和元年〜八年 略年譜
- 元年12月 神示により自己の使命を感得。見真実の境地に至る
- 2年 6月4日 三女・斎誕生
- 3年 2月4日 事業を番頭に任せ、救いの神業に専念
- 4年 この頃より御手代を揮毫し、弟子に下付
4月11日 三男・茂芳の誕生
5月23日 観音の守護神・「金龍神」が教祖の守護神となる - 5年 6月1日 大森「松風荘」庭内にみろく塔を建立
- 6年 6月15日 千葉県鋸山山頂にて霊界における夜昼転換を感得
- 7年 3月24日 四男・六合大誕生
岡田茂吉教祖御事績
凡例
井上:井上 茂登吉先生(世界救世教)
岡庭:岡庭 真次郎先生(世界救世教)
【昭和元年】
井上
・予て神霊の有無、神と人との関係、信仰の妙諦等の研究に没頭せられいる中、観世音菩薩、教祖の肉体に神懸りし給い、三ヶ月に渉って神示口述せられ、これを現教主に筆録せしめらる。(現教主とは二代様の事)
・神示の主なる内容
一.五十万年以前より七千年前までに至る日本の創世記より、人類社会の歴史。
一.世界の未来記(満州事変より第二次世界大戦及び戦后の世界状勢等、既に神示の通り実現せり)
一.教祖の大使命、前生、祖先、神との関係等
【昭和2年】
井上
・神示に就ては、飽迄も猜疑と冷静の態度を以て綿密に検討されたが、数限りない奇蹟の実証的裏付けによって、一点の疑も容れ得ぬ眞實なることを確認されたと共に、遂には、古来何人も到達し得なかった見眞実の頂点を究めらるるに至った。
奇蹟による実証の一例
大本教の月刊誌「神の国」に発表された恩師出口聖師の短歌三十幾首の内容が教祖の受けられた凡ての神示と符節を合する如き事柄であり、その眞実を立証するものであった。(これは教祖以外には誰人にも感知することの出来ぬものであった)
出口聖師は或る時
「教祖の言霊は絶対的権威をもっており、凡ゆる物は教祖の命ずる言霊通りに変化せしめ得る」ことを告げられ、「神示通りになる教祖の力」を証しされた。
何日か前に予示されたことが、寸分違わぬ事実となってあらわれる。
如何なることも知りたいと思わるることは必ず知り得た。……等。
【昭和3年】
井上
・空前の大使命をハッキリと知られ、全身全霊を以て大聖業に没入しなければならぬと覚悟せられ、節分の日を期して、営業を支配人(福本金治、長島孝)に任せ(後に無償で譲渡された)信仰生活に入らるることとなった。
・神示始まって以来、観世音菩薩は常に教祖の肉体に懸られて、種々の事を教えられ、命じられ、自由自在に教祖の肉体を使われ、観音の身代わりとして、人類救済の大業をさせらるることとなった。
縦而、此時以来、教祖の自由は失われた。
此の事を教祖は
「観音様という主人が思い通り使われるので、私としては全然自由がない、といって観音様が揮われる妙智力は自由無碍であるから、その点、亦別である。一言にして言えば普通人より自由がなく、普通人より大自由があるという訳で、この心境はなかなか説明し難い。普通人には想像すら出来ないからである。」……と説述されている。
爾今に於る絶間ない神示や奇蹟によって、行われた神秘幽玄な神業は人智の窺知の到底及ばぬ所である。経綸は神幽現三段階に渉って順序正しく行われ、三年より五年迄の三年間は神界の経綸なりと垂示せられていた。神秘な神業の眞相は全く不明である。
・教祖は、その大使命も神秘も胸奥深く秘められつゝ、大本教宣伝使又在京幹部の任務に最善の努力を尽され、信徒の在り方の最高の規範を身を以て示されたと共に、先ず、霊的研究と病気治療に専念された。
・中国の世界紅卍会の王性眞氏等の一行来朝、麹町区山元町の大本教愛信会に於て開壇の際、扶乩により道院の主神「至聖先天老祖」より「浄」の一字を御揮毫賜る。
【昭和4年】
井上
・大本教本部は屡々赴かれ、都度神秘な事象が起った。
出口教主とは常に親しく語り合はれ、肝膽相照らす如く、救済の業に精進され、出口師も秘かに教祖に敬意を払われ、特別の扱いをされた。
「松風荘増築、大本教大森分院を置かる。」
五月
「三千年間琵琶湖に潜まれし、伊都能売金龍神、教祖守護神とならる。」
・この時住居の上空に、大暴風雨、雷鳴が起った。
「朝寝坊暉月」と号さる。
・大本教の明光文芸に精進せられ、関西冠句界の宗家三代目朝寝坊を襲名。
「床次竹二郎氏夫妻、柳原白蓮女史、安藤照子氏等来訪」
・治病法は、大本教で行われた鎮魂帰神法の形式を以てする神霊放射の方式で、「大本皇大御神」の神号を唱えて行われ、特殊の場合、言霊や文字を用ひられた。
【昭和5年】
井上
5月5日
「正午(午の年、午の月、午の日、午の刻)重大神秘あり、松風荘内五六七塔前で記念撮影せらる。」
7月23日
「富士登山せらる。」
・帰還直後邸内に於て、木花咲爺姫尊の神姿を霊視せる者あり。
9月15日
「天人会作らる。」
・独特の笑の文芸を創始され、天人会を作られ、信徒の芸術教育をせらる。
【昭和6年】
井上
6月15日
「房州鋸山神事」
・黎明を期し三十数人の供を従え、房州保田、乾坤山日本寺の山頂に登って、東天に向い祝詞を奏上すると共に、神秘な或事が行われた。この行事こそ「夜の世界が昼の世界になる境目としての経綸であった」……と解示されている。
事実、満州事変を発火点として、転変し来った世界の動きを深く洞察すれば、夜の文化崩壊と、昼の文化抬頭興隆の趨勢がよく表われている。
6月
「皇室瓦全的運命識らる。」
・或る型(霊界で起こった出来事が、現界に徴しの如く、小さく表示されたもの)により、日本の皇室は将来瓦全的運命となるべき事を識らる。
「観音画像三体(大幅)揮毫せらる。」
・これ等は後に観音教団及び世界救世教となりし時の総本部御神体となる。
「日光、鹿島香取、榛名、筑波山等巡遊せらる。」
・各地巡遊せられ、神秘な神業行わる。
「松風会・笑和会つくらる。」
・独特の松風調短歌芸術を創生され、信徒の芸術的情操涵養と向上に努めらる。笑和会(七年)
岡庭
6月15日
先生始め信徒多数にて房州日本寺に、天照大御神様を御迎えに御出で遊ばさる。此朝、岡庭は早く起きて掃除中、東より西へ曇りし空一直線に約七八寸開きて、青空を見るの不思議を拝す。先生のお帰り後、この由を申し上げたる処、貴方も行った事に成って居るから、その様な不思議を神様がお見せ下されたのだとの御話にて、実に神様の御仁慈に感激したので有った。この日佛国降伏す。
【昭和7年】
井上
・六年より八年までを「幽界の経綸」と垂示されていたが、この年は憑霊現象を呈する病者が多数救いを求め来り、主として人霊、動物霊(転生)、等の霊的救済をせられ、正しく八衢地獄の状を髣髴たらしむるものがあった。
この期間は、特に迫害受難が深刻化し、波瀾に富んだ三年間であった。
・数年前より大本教内一部信徒が、教祖を嫉視憎悪抹殺せんとして流布せる悪質なる造言の渦は、本部と東京を中心として全国的に波及深刻化し、教祖の大本教布教活動を妨害するものも少なからず生じ、本部としても放任できぬ様相を呈して来た。出口聖師は如何なる神策によるか、機関誌「神の国」に教祖の行為を邪神的所業なりと断ずる如き意味の短歌を発表して、事態を収拾せんとしたが、その為、教祖は、全信徒より決定的に異端者視さるることとなった。
(聖師の処断は固より神の経綸によるもので、教祖が大使命ある身故に大本の母体を放れ、世に出でしめん眞意かと解された。)
・その後、かつて共産党員なりし一名の刺客来訪して、教祖の面前にて小刀を抜くや、急激の腹痛起って苦悶、遂に果さず、大いに驚愕、改悛心服して、無礼を陳謝す。
他にも危害を加えんとする者、東京都内に二、三ありたり。
・爾来、世界悪の根源たる邪神との戦いは次第に激しく表面化して行った。
(邪神とは、共産主義の中心赤龍、巨頭黒龍、武力惨虐を得意とする八俣大蛇、譎詐頽廃の九尾狐霊等である。)
(そして邪神との戦いは生涯続いたが、晩年になって遂に折伏された。)
・教祖は迫害と誤解の園の中に孤立無援、累卵の危局に立ながらも、泰然として微笑を溢え、尚も大本教の蔭の力となって、その発展に努力、漸次大勢を挽回したが、終には大本教前途に壊滅的運命至るべきを深く察知された。
岡庭
2月15日
大本教の本部より共産党の吉川という人が来て、先生に御面会。短刀抜きて畳に突き差し、
先生を強迫す。この為十六日大本教本部に御弁明の為に御出になる。本部より来りて頑張り居たりし吉川も帰る。
2月16日
先生より大本教本部に、余りに悪宣伝する者多き為、是が弁明のために御出発。留守中を代理として鎮魂する様にと御命令なり。今日まで御代理として鎮魂致したる人は一人もなく、名誉この上もなき事乍ら、又その為責任重大なるを感ぜずには居れません。先ず最初、堀口清松、吉野金吾何れも、“アア良い気持だ”先生にやって戴くと同じだとの言葉に、実に有難く、又安心して鎮魂が出来たのであった。九名鎮魂なす。先生は、正木、清水、両氏をつれ、悪魔吉川と共に“ツバメ”にて御出発。鎮魂代理は十七日朝よりにして、十六日は御命令があった日である。十八日もぞくぞく患者来り十二名鎮魂す。
2月19日
先生は、今朝勇躍してお帰りあられ、本部の人々は、先生のお顔を見られんから何とか言うので、御出でになられると、別に何とも王仁三郎師も申さず、お守り様も、おひねり様も、結局王仁三郎師も許されて何も問題なきを、信者がうるさいのである。尚また、おそばに悪魔の真柄父子ありて何かと本部へ通信するなり。東京本部よりも、何かと言って本部へ報告する為である。出口師は、先生の大神人であられる事を、見破りし人なれば決して文句を言う人にはあらず、その為なにごともなく御帰り遊ばされたのである。
8月22日
先生より、我家を七星荘と御命名下さる。そして七星荘と書いて、御額にまた誠と、真神の書を三枚書いて賜りたり。岡庭は北斗七星にして、北斗七星は伊邪邦岐尊のチンポコ。即ち天の瓊矛であるとて笑い冠句の雅号を珍宝と御命名下されたのであった。
8月26日
分院の床の間へ神様と並べて乙姫のお姿の御岫を掛け始む。此の日は和歌の友寄りて、秋草のお題を先生よりお出し下され、一時間の間に二十詩出来上がりたり。又笑話会の笑冠句に、笑いこけヘソ茶沸かして大さわぎなりき。
【昭和8年】
井上
・迫害と受難は教祖の力をます結果となり、教祖を信奉するもの漸次その数を増す。
この年大森分院の傘下には一分所五支所を置くこととなり、人類愛善新聞の配布数は大本教随一となる。
・光明(神の霊光)の奇蹟顕著に現われ初む。
「治病法は徐々に大本教的鎮魂方式を脱せらる。」
「神霊放射治病法により、凡ゆる難症治癒の確信を得らる。」
7月
・朝寝坊暉月の号を捨て、「明烏阿保」と号さる。
岡庭
7月16日
先生朝寝坊帰暉月を改められ、明烏阿保と御改名遊ばされ、いよいよ明の烏が鳴く。